第3章
  2、枯蟷螂 三角でもの 考える

  <その7> 韓国の平山班長が生きていた         2005.4.23〜
                                        

白浜一良議員への書簡

与野党両案の趣旨を尊重した
解決策についての提言
日ロ平和条約に「シベリア抑留」を
忘れるな


T君への書簡6
(韓国兵事情について)



白浜一良議員への提言                    2005.4.23.

 早速ですが先日は老兵たちの集会にわざわざご臨席頂き、そのうえ激励のお言葉まで賜りましたこと誠に有難く厚く感謝申し上げます。

 まだ浅いご縁でありながら私は何の遠慮も無くものが言え、また耳を傾けて下さる先生の懐の広さを感じて心強く、感謝いたしております。そこで添付の私案をご覧に入れ、ご依頼を申し上げる次第です。

1、与野党法案は近く上程され総務委員会に付託、審議されるものと思われます。

2、委員会では相当の討議が予想されますが結局は数の論理であり、我が方に良い結果が出る公算は少ないでしょう。

3、しかし老兵たちから「バカにするな法案」と謗られることは与党としても心外で、これでは目出度く解決という大団円にならないことも明らかです。

4、その与野党両案の趣旨を損なうことなく、受け取る側も納得できる<落とし処>が私案(添付)で、更に工夫を重ねることにより270億前後も可能、これで一件落着なら安い解決ではないでしょうか。

5、与野党の面子で立ち往生の現状をスムーズに纏め、三方一両損で解決出来るのは公明党をおいてはありません。人道人権の尊重を党是とし、弱者の側に立って是は是、非は非を明らかにされる貴党に大きな期待を懐いています。

6、この話は私ともう一人の世話人の二人だけのマル秘であり、時と人を選んで進める案であります。毒にもなり薬にもなる高度の政治性を持つこの案は、知性と実力を具備された先生でなければご理解頂けないと存じ、真っ先に先生にご相談申し上げた次第です。(先生は太田昭宏さんと同じく京大組)

7、詳しくはご一報あり次第いつでも参上、補足いたします。また幸い貴意を得ましたなら鳩山由紀夫議員(本件推進の中心)には何時なりと連絡役を承ります。

8、時もいまをおいてはないのです。我々には力もカネも枯渇し、すべてを今国会に賭け、8月には旗を降ろそうかと考えております。

 年寄りの厚顔と短慮をお許し下さいまして、どうか歴史に残る斡旋ご助力を偏に懇願申し上げます。

 与野党両案の趣旨を尊重した 解決策についての提言   2005.4.12、

 多年懸案の「シベリア抑留」問題の円満な<落とし処>として以下を検討下さい。

 私は「シベリア抑留者」であると同時に「軍人恩給欠格者」であり、また「戦後引揚者の補償未受給者」でもありまして、それぞれ戦争犠牲者援護費を受ける資格がありますが、何故か重複受領ができず一つに限られているようです。 また「平和祈念事業基金」が出来た時でしたか、同じ苦労をしたシベリア仲間が “軍人恩給を受けている” という理由で10万円国債を支給されませんでした。彼は長い間兵役に伏し、そのうえシベリアで過酷な体験を強いられたのですから、恩給とシベリアは全く別のことであり、当然国は両方を払うべきではなかったのでしょうか? 始めから食い違った歯車はそれ以後もチグハグな処遇を繰り返して今日の矛盾へと繋がっています。覆水は盆に返らず、それならむしろ今回はこの矛盾を活用して収束を図るのも一策と思います。

 両案の審議について

1、政府、自民党案 (以下A案) について諸論はあれ、少なくとも戦後60年の時間を稼いだというメリットを多とすべきであり、これで済むなら国は万々歳でしたが、そうはうまくゆかないのが摂理でしょう。60万の兵士を弊履の如く捨てた国の不実は後を引き、このままでは棄兵棄民のそしりがいつまでも消えません。補償を惜しんで取り繕った「平和祈念事業」の「残飯分け取り法案」 注) は役人の浅知恵で、この無理な推進は天下の自民党らしくありませんし、受け取る方も面白くない、これでは問題の解決に繋がらない全くの無駄ガネであります。  

・・・・シベリア抑生存者のみ10万円相当の旅行券

2、民主党案 (以下B案) この5段階制は実態には程遠いとは言え抑留中の未払い賃金の支給を象徴したもので、些少ではあれ抑留者の願望に添ったものです。 “捕虜に労銀は支払われるべし” の国際法にも適い世界の普遍性にも合った、これなら多年悶着の根を切るに足る法案と申せましょう。   

注・・・・ 最低ランク40万円、遺族20万円、其の他合計800億円

3、「シベリア抑留」の苦難は心身ともに筆舌に尽くし難い犠牲であり、金銭価値のみでも6兆円を下るまいといわれています。強制労働による未払い賃金も一人年額400万円以上、一人々々の精算は困難でしょうが世界各国においては1万ドル乃至2万ドルを一つの目安として補償を行い、手厚く労に酬いています。

4、自民党へ

 昭和61年に加藤六月議員が起草し斉藤邦吉幹事長が推進した自民党議員立法の「シベリア補償法案」がありました。不幸にして政府の圧力により日の目を見ずに消えましたが、その提案理由を是非思い出して頂きたい。19年前に比べ、今の自民党は掌を返したような変心ですが、これでは天下党としての信義が疑われます。参考までに当時の「被抑留者等に対する特別給付金の支給に関する法律案」を今回基準に合わせて試算すれば、補償総額1641億円強。今回がいかに謙虚でささやかな訴えであるか、先生方のご再考を切にお願い申しあげます。

5、公明党へ

 昭和62年には野党共同提案として「シベリア補償法案」が上程され、当時は野党であられた公明党も参加されています。残念なことに自民党に押し切られて不採決廃案となりましたが、この場合も実に立派な提案理由でありました。今回も是非そのお気持ち通りのご採決をお願い申し上げます。また当時公明党の竹内勝彦、鈴切康雄、井上和久の各先生は衆議院内閣委員として法案成立に献身ご努力を賜りました。先生各位におかれましてもどうか先輩のご遺志達成に尽力賜りますよう期待いたします。

6、このところ引き続いて大阪、京都、兵庫、奈良など近畿各自治体をはじめ、九州では福岡県議会においても「シベリア抑留者への未払い賃金の支払いを求める意見書」を満場一致で採決し、中央政府に早期解決を迫っています。役人は兎も角 国民の声に耳を傾けて下さる選良はこの不条理を充分にご存知であります。政府側は随所に理論破綻を暴露し、国会答弁もろくに出来ないありさまで、いまや大量拉致の「シベリア抑留」は野党だからとか与党だから反対の問題ではなく、日本人の国民的課題として考え直さねば・・・・ この不正義をこのままでは世界や歴史が許す訳がありません。

7、私たちの主張

 A 案が処分しようという「平和祈念事業基金」は一旦国庫へ返納が筋で、私たちはその代わりとしてB 案の採決を強く望むものであります。この正当な訴えを財源不足などの理由により出来ないということであれば、止むを得ない次善の案として<C案>を提案いたします。

 C案について

 身体障害者が厚生年金受給の資格を得たとき、従来受けていた障害者補助を加えてのダブル受給は得られない、同じ福祉厚生費という大枠の中では何れかを選択し一方を捨てるのだと聞いています。これと同様に「シベリア抑留者」であり、且つ「軍人恩給受給者」は両方の受領が無理であるとしても、どちらか有利な方を選ぶ権利を与えられるのは当然であります。

帰還年 帰還者数 本人(人) 給付金 遺族(人) 遺族
〜23末 375393 36800 ×40万 1470000
〜25末 94963 9200 ×50万 460000
〜27末 8 0 ×100万
〜29末 1217 0 ×150万
30年〜 1353 0 ×200万
472934 46000 193億 154000 154億

    日ロ平和条約に「シベリア抑留」を忘れるな   2005.5.15、

先日はテレビで「望郷」というドラマを見る機会がありました。NHKが終戦60周年の特別記念番組として「シベリア抑留」をテーマにした作品で、抑留体験を持つ私には殊更感慨深く、特にウラル山中の極寒風景は遠い記憶を呼び込んで骨の凍る思いがいたしました。皆さんはどのようにご覧になられたでしょうか、シベリアの酷寒地獄の凄まじさは広く国民の間に定着したように思われます。


しかしこの苦難が何故おこり、一体どういう事件であったのか その実相は少しも語られず、今回も情緒的な哀話の域を出ることなく終わりました。「シベリア抑留」は一発の砲火も響かない戦後の出来事で、60万もの人間が不法にも拉致されて6万とも9万とも言われる同胞が死んだのであります。我が国の歴史にこれほどの酷い悲劇が他にあったでしょうか、シベリアはひもじかった辛かった の惨めさこそ語られても世間はそこから一歩も奥へ踏み込もうとしてくれないのです。何故でしょうか? わが民族は度が過ぎた忌まわしさを正視する勇気を持たなくて、敢えて恥部に手を触れず、考えないことにして忘れることが最も利口な知恵であるらしい、お互い口に出さなくても本能で「シベリア抑留」の真実を感じ、すべては沈黙のうちに時間に任せて埋葬しようと・・・・ それほど本件は傷が深いのでありましょう。

 
 しかしこの暗殺のような方法は感心したことではありません。私たちは戦後の60年声を涸らして訴え続けました、抑留の原因が国体護持の名の下に国が60万の将兵をソ連に引き渡した事実と、強制された奴隷的労役がソ連への役務賠償にされていた屈辱、そして人柱にされた兵士に対し、賃金はおろか抑留中の食費すらも払わない母国の冷たさ等々、しかし頼みの国は不思議なことに真面目に取り上げず、そのうえ相手のソ連に一度も抗議をしないのです。


老い先短い老兵たちの願いは唯一つ、“「シベリア抑留」の犠牲を踏み台にして北方四島を取り返せ” であります。我々の血と汗と涙の結晶は6兆円を下らないと言いますが、これを濡れ手に粟と巻き上げた上に四島とは、ソ連も欲が深過ぎはしませんか、いくら厚顔のロシアでも「シベリア抑留」は彼らのアキレス腱で最も痛い泣き所、これを突かずに何が外交か。


 今年は日ロ修交150年の節目に当たり国交の修復が叫ばれていますが、いまだ平和条約の締結を見ないのが現実で、そのネックが北方四島とされていますが、何故「シベリア抑留」も正面に据えないのか、1月以来の外相会議、日ロ賢人会議、日ロ協議のいずれにも問題は出てこないのであります。この5月に「大祖国戦争勝利60周年祝賀式典」を挙行して得意満面のプーチンに、我が小泉首相が近く会うとか聞きますが、ヨーロッパの勝利は快挙であっても満州でのソ連軍は不法であり著しく正義、道徳にもとる暴挙であり、特に「シベリア抑留」はエリツィンが深々と頭を垂れて謝罪しただけでは済まない非道で、この際犠牲者が納得できる骨太の交渉を強く期待するものであります。

  T君への書簡 6   <韓国朔風会事情について>    2005.5.25.



左より 申 鉉尚、李 炳柱(1999.12. ソウル)

 早速ですが君は平山班長のことを覚えていますか? アングレンの朝鮮分隊のことですが・・・・ それが偶然平山誠一こと申 鉉尚氏の消息が判ったのです。

 同封の写真をご覧ください、“あぁ彼ですよ、間違いない、懐かしいな、それにしてもよく生きていてくれたもの” と事情に詳しい矢部兵長はひと目で折り紙を付けてくれました。ソウルで健在、しかもいま日本国を相手に「シベリア抑留」の補償を求める原告団の一人だと聞けば、君も驚かれることでしょう。

 アングレンでの朝鮮兵は平山分隊の30数名だけでしたが彼らは実に気の毒で、敗戦に巻き込まれて我々同様 いやそれ以上にひどい目に遭っていたのでした。その数3500、うち死亡者1200とは34%の高率で、辛うじてダモイ出来たのは2300人弱といいます。その生き残りたちは1948年9月ごろソ連領各地のラーゲリから中継地に集められ、同年12月に北朝鮮の興南へ、漸くにして祖国の土を踏んだのであります。

 本当の苦労はそれから先で、夢にまで見た祖国は南北に分断されて何処へ帰ればよいものか、または安全な旧満州か。思案の果ては韓国へ500、北朝鮮へ1360、旧満州の中国領間島省地区へ325人の三つに分かれてのダモイとなったのであります。そのうえ韓国への兵士は38度線を保護なしの越境帰国となったため、祖国から銃撃を受けるという悲劇もあったように聞いています。

 帰れば帰ったで「日帝協力者」とそしられ、(これは他の二つも同様) アカだ、アカだと指差され、社会復帰は困難を極めたようで、日本軍国主義の罪業はどこまで行っても付き纏い、実に気の毒な宿命でありました。それでも韓国組は1991年末、漸くきざしが見えだした民主化をとらえて朔風会を結成、名乗りをあげた仲間は52名であったといいます。数は少なくとも不屈の意思と団結は見上げたもので、以後日本の全抑協と連帯して、共闘の関係にあります。

 私がこれらの諸君と親しくなったのはそう古いことではありません。昨年5月東京での激論以来のことで、当時我々の希望の星であった民主党補償法案が “ない袖は振れぬ” と大幅にカットされ、そのうえ遺族はゼロ、外国兵も駄目だと全面譲歩を甘受させられた時でした。外国籍の問題とは日韓講和条約で請求権を相互に放棄したとき、これからはお互いに自国のことは自国で処理するように、日本の借金は棒引きに致しましょう という朴大統領の打算によるものですが、だからと言って韓国兵の問題は戦前の日本兵としての被害だけに複雑です。渋い政府を相手では外国籍だけのために全体が潰れる公算が大で、取り敢えず今回はやむを得ずの引導を渡した経緯があります。

 とは言え1993年以来10年余に渉って共に戦い、ジュネーヴの国連人権委員会にまで参加協力してくれた友党に、今更面と向かってこれが言えますか。鈴を付けるのは誰か、結局新参の私が恐る恐る口火を切ったのですが “いまさら何だ、それが同じ黒パンを分け合った仲間が言う言葉か!” と連中が色をなして怒るのも当然です。いつ果てるとも知れない争いにけりをつけたのは会長の李 炳柱君でした。 “わかった。いくら怒ってもそのために日本の仲間が不利になるようなことは、俺には出来ない。取りあえずは先ず打開の風穴を開けて貰うことだ。” 鶴のひと声とはこのことでしょう。以後私はこの男に頭が上がらないのであります。引き続いてのソウル国際集会に参加したのもこの時の借りのためですが、この偉丈夫は男が惚れ惚れするほどの快男児で、以後肝胆相照らす交友を得ています。

 しかし私は、彼が団長を努める30人の原告の中に平山班長が加わっていようとは夢にも知りませんでした。その糸口を作ったのは福岡の下屋敷さんで、“アングレンにいた申 という韓国兵から手紙が着たが・・・・” と知らせてくれたのが9月のことでした。

 申 鉉尚氏が平山班長その人であったとは驚きました。早速大山少尉や矢部兵長、また友の会の上村さんにも知らせましたがみな非常に喜び、それぞれが文通を始めてくれました。“故郷の親戚からの便りのようで胸が詰まって一度には読めない” と涙ながらの返事を読めば、一度大阪へ呼べないものか の声も出て、足が不自由らしいのですが来日を薦めているところです。ソウルのアドレスは別紙のとおりですからT君からも勧めてください。

 もっとも多く残った北朝鮮の事情は明らかではありません。ソウルの集会に代表として派遣されてきた黄 宗洙氏とも話しましたが、温厚な人物ながら “もうすっかり忘れた” と殆ど沈黙で、厚いベールに包まれた印象でした。李会長は “誰に尋ねてもいつも無言だよ、気の毒だが日本軍に加担した兵士に良い結果はない、北では処置なしなんだ” と諦めていました。

 中国領へ帰った325人は更に図們へ302、新義州へ18、琿春へ5人と別れ、その後は大海に呑み込まれるように消えましたが、そのなかに日本人の小熊謙二氏と組んで裁判を起した呉 雄根君があります。この人も苦労の末保定大学の教授となり、最高裁で棄却の後も敢然と日本国に抗議を続け、この5月には東京で私も不屈の風貌に接しています。

 私が彼らに引かれるのは心底が実に爽やかであることです。国民性でしようか 容易に節を曲げない、ひるまず屈しない。その古武士のような頑固さ、守る信義の強さ。日本人がとうの昔に忘れ去った古風な侠気を見るにつけ ほれぼれとするのであります。

 私はこの国がやらない万分の一でも生ある限りこの人たちに捧げたいと思います。大阪ではよく “あいつ、ええとこあるで、感心した。” といいますが、ええとことは潔さ、侠気のことで、わが国は近来これらを失って、醜いソンかトクかの下司な国に成り下がってしまいました。東アジアの、特に中国や韓国との友情を辛うじて繋いでいるのは草の根といわれる目には見えない人々の隠れた努力であります。

 こんなことが言いたくて長々とキイを叩きました。健勝を祈ります。

< 申鉱尚氏への書簡 >                     2004.9.29.

早速ですが、私がアングレンに抑留されていたことを知っている下屋敷君から貴方の手紙が廻されて驚いたり喜んだり、何はともかく筆を取った次第です。

この年になり貴方たちの消息を知ることは大きな喜びです。なにから書いて良いら・・… 先ず同送の拙著や写真をご覧下さい。

私は新京編成第2大隊 (近藤四郎大尉以下1000名) の2等兵で、アングレンの第2ラーゲリでしたが、もしや貴方は平山班 (朝鮮人兵士) ではなかったか? 60年も昔の淡い記憶が残っています。

お互い苦労しましたが、これらはすべて日本軍国主義の責任で、日本人の我々なら仕方がないと諦めても、貴方たち外国人が更に酷い扱いを受けるのは実に申し訳無い気持ちで一杯です。私もこれら不条理を糾すため裁判をしたり、補償運動をやったりしていますが、戦後60年になろうと言うのに何一つ解決しないことを残念に思いす。

朔風会では李会長や釜山の朴定毅さんには親しくして頂いています。5月のソウル大会に参加して、一夕 皆さんにプルコギをご馳走になりましたが、そのとき貴方は出席されていましたか? 知っておればゆっくり アングレンの話をするのでしたね、

 日本では毎年集まって思い出を語り、親しくしていましたが、次々に居なくなり、残った者も老化して 「アングレン会」 も解散 (1997年) し、 寂しくなりました。

ご返事をお待ちいたします、またお尋ねなどありましたら何なりと聞いて下さい。調べてお知らせいたします。

あれだけ苦労をしたのですから、その分は長生き致しましょう。お元気で・…

< 申 鉉尚氏よりの返信 >                    2004.10.11.

 お手紙誠に有難うございます。

あなたの 「アングレン虜囚劇団」、上村さんの 「奪われた青春」 の一部、それに写真まで同封され、ほんとに有難うございます。何度もにじむ涙を拭きながら読みました。眼鏡を外したり、掛けたりの、虫眼鏡も重ねて、二、三ページ読むと目が霞んで読めません。休んでは読み、休んでは読みました。読み終わる迄は何も出来ません。それでご返事が遅れました。重ねてお詫び申し上げます。

久しぶりに60年の昔を思い起ししました。全く忘れてしまった事が、たまには全然記憶に残ってない事も・・・・・ ほんとに感無量です。

当時僕の日本名は平山誠一です。階級は乙幹で軍曹か伍長です。昭和19年1月20日入隊しました。だから軍隊生活が20ヶ月、捕虜生活が40ヶ月・・・・・ それに帰国してみれば南北に別れ、同族相争の戦争まで・・・・・、時には赤とかで、全く奇遇な運命です。

もう80を越え、子供も孫も出来ました。医者も居れば大学の教授も居ります。孫たちも大学を出て、サラリーマンも軍人も居ります。

僕は膝が悪くて歩行が不便で、サイクルで町を廻ったり、老人亭に行ったり、孝行を受けながら隠居さんになりました。第一に健康、第二にも健康です。お互い様留意されんことを・・・・・

 目が疲れてもう書けません。失礼致します。ほんとに連絡が出来まして有難うございます。厚く御礼申し上げます。今後ともよろしく、御健闘を祈ります。
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