<その1> 司法がダメなら国会があるさ 2004.2.19〜
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イラク派兵とシベリア抑留 <ある新聞への投稿> 2004.2.19.
1月27日、私たちの闘いがまた一つ終わった。最高裁は「シベリア抑留」の未払い賃金請求を棄却し、深刻な人権侵害の回復もなされないまま敗訴が確定した。 私は国の命令で召集され、スターリンの命令で拉致され、飢え、寒さ、強制労働で多くの仲間を失い、地獄の底から辛うじて帰還した。この民族はじまって以来の悲劇はソ連に対する役務賠償の尊い犠牲であった。夜毎夢見た懐かしの母国は、この受難の兵士を温かく迎えたであろうか、待っていたのは思いもよらぬ冷たさで、シベリア帰りはアカだアカだと敬遠され、マッカーサーの指令で警察の厳しい監視を受け、寒々とした苦しみと暮らしの辛さを舐めさせられた。シベリア帰りは戦争が引き起こした被害者であると同時に捕虜を蔑視した軍国主義教育の被害者でもあり、更にアカ呼ばわりされた冷戦の被害者であった。 世界の捕虜が勇者としてそれぞれの母国から手厚い補償を受けている中で、独りシベリア捕虜だけが賃金はおろか、国は抑留中の食費さえも払おうとしないのである。同じ日本兵でも南方からの帰還兵には賃金を支払う と言う不公平も是正されず、この国は自浄能力の有無を疑われるほどの因業ぶりである。これら不条理が親とも頼む祖国の仕打ちだけに、受ける絶望と悔しさはシベリアの三重苦以上に心を砕くのである。これほどの理不尽がこのままで済む筈はない、いつかは救済されるであろうと 心のどこかで信じてきた。しかし、余命乏しい私は国のこの冷酷非情が本心であり、弊履のように老兵を捨てるであろうことを認めざるを得ないのである。「シベリア抑留」そのものを老兵の死とともに過去の底深く埋葬しようとする意志が明らかであるからだ。 敗戦から59年、自衛隊が海外に初めて派兵された。かって、私たちは“お国のために死んで来い” と背中を押されて出征したが、いま武装した日本の青年は“一人も死なないように ”と言われている。政府は万一亡くなった時の弔慰金を9千万に引上げたが、この手厚い厚遇に比べシベリアは、これが同じ国の兵士に対する扱いであるのか。現在、民主党が私たちに特別給付金を支払う法案を準備してくれているが、総額は1千億円、1人当りの給付額は30万円。自衛隊派遣手当ての僅か10日分に過ぎないが、これすらも自民党議員は「ノー 」と言う。 長年、私たちは“捕虜の権利を守れ” と主張し、ジュネーヴ条約の追加議定書の批准を求めてきたが、今回自衛隊の海外派兵につじつまを合わせるために、漸く今国会で批准し、関連国内法も制定すると言う。あまりのご都合主義にあきれる。平均年齢80歳を越えたシベリアの老兵は、最後の戦いの中で「愛国心」の放棄を宣言するつもりである。たまらなく寂しく、悲しいことだが、「祖国」を愛することができないまま、私たちは旅だっていかなければならないのだろうか?イラク派兵は新しい「有事」に突入したが、私たちの「戦後」はまだ終わっていない。
「平和祈念事業特別基金」とは何であったのか 2004.2.21.
新聞はこの独立行政法人(以下「基金」という)の解散を政府、自民党が検討中と報じているが、昭和63年制定以来16年に渉って行われた慰藉事業とは、とりわけその下請けを独占した「財団法人全国強制抑留者協会」(以下「財団」という)の所業については抑留者として承知しておく必要がある。 “「基金」は今次の大戦における尊い戦争犠牲者を銘記し、かつ、永遠の平和を祈念するため、関係者の労苦について国民の理解を深めること等により、関係者に対し慰藉の念を示す事業を行うことを目的とする。” との額面に添ったものであったかどうか、 解散を前に充分な精査、検討を加えたい。
第一 概論 1、この「基金」はシベリア抑留の正当な補償の要求を、ごく微細な慰藉という名の涙金で糊塗し、なおかつ、関係者の死に絶えるまでの時間を稼ぐ策略であり、現職大臣がいみじくも言う “「基金」は元々 国がやってもいいことを代行しているんですね、ダミーなんですよ、これ。ある意味では渋々なんですね。” の答弁のとおり、初めから真心の一欠けらもない見せ掛けだけの事業であった。
2、その下請けを務める「財団」は国を父に、自民党を母として産声を挙げた権謀術数の申し子で、全額出資者たるオーナーの意を戴して燃え上がる補償要求の炎をそらし、代えるに恩給加算や“補償はロシアから” 等、出来そうもない虚構を唱えて時を稼ぎ、その間 身内中心の偏向した慰藉事業を独占するという典型的な毒饅頭組織であった。
3、この「財団」を信用した人々は、少数の幹部に最後の最後まで裏切られたが、これは大戦末期にトクな和睦を願うあまり、選りによって大悪党のスターリンに仲介を頼んだ「近衛要請」を髣髴させる思いである。
第二 その七つの問題点について
1、モスクワ、シンポジゥムの怪 平成5年から平成15年まで延々11回に渉り行われた恒例行事は一体なんであったのか、民間団体の催しとは言え これは「基金」の目的、性格に合った事業であるのか、所管である総務省の見解を求める。またこと国際的な問題を孕む折衝は外務省も了承済のものであるのかどうかを承りたい。
1)これらは毎年行われ、第7回を例に挙げれば述べ10名が参加。なかには厚生労働省課長、大使館の参事官も、また御用学者3名を含む多彩な顔ぶれだが、これは「基金」の目的を遥かに超えた事業であり、民間の分に過ぎた専横だが、この参加者はシベリア抑留者の総意を代弁する資格が全くない。
2)平成13年9月21日、相手側の「相互理解協会」(A.A.キリチェンコ会長)との間に「合意文書」を取り交わしているが、その1に “ ソビエト指導部の命令により強制的にシベリアに連行された日本人は、捕虜でなく抑留者であった。ロシア当局はこの事実を公文書において明示し、この行為に対して謝罪し、かつ補償の不可避を認める。”との文言があるが、これは外務省の承知の上のことであるのか、どうか?この場合、「日ソ共同宣言」6項の “両国はすべての請求権を相互に放棄する” との関連も合わせて説明されたい。
3)捕虜かどうかの身分の確定に関する我が国の見解は、相沢英之議員の質問主意書に答えた小渕答弁書(平成9年11月28日)で明らかなことである。即ち“ 国内的には俘虜の取り扱いを受けないが、国際法上その捕虜としての待遇を受ける権利を失うものではない” 今回のこの政府見解に反する合意は「財団」と「基金」の意志であるのか、どうか? 4)相手側団体の資格と権能について、このような民間の行動が罪のない外交ごっこのうちは見逃されても、お遊び料が莫大である。国費の無意味な乱費は厳しく問われなければならない。
2、幻の「抑留加算」 抑留中の軍人恩給加算を3ヶ月とせよ の呼び掛けは、「補償要求」の道を自ら絶った「財団」の苦肉の策として平成10年ごろから浮上した。10万円だけの慰藉だけでは最早大衆の不満を抑えられなくなり、その目先を逸らせる戦法であるが、そもそもが無理な注文であった。ドイツのように抑留月×いくら (単価は累進性)にしておけばよいものを 12年で切り捨てた欠点がどうにもならないのである。3年に加算した所で欠格が解消できないこと、またシベリアだけのことでは収まらないのが目に見えている。
3、慰藉事業の怪 1)活発な支部に於いては地元で慰霊祭、展示会、労苦調査、語り継ぐ会等の行事を行うが、費用のほぼ倍額を中央へ請求し、補助金、助成金として交付を受けている。G県支部平成14年度収支決算によれば、本部より348万円を受け取り、実費支出178万円、ほぼ倍額の水増し利得を役員費、事務費、其の他に当てている。(別添)
2)会費は徴収していないが、上記の利得分より31万円を計上し取り繕っている。
3)年に一度の東京慰霊祭会計は本部で計上のようだが、上京バス代、弁当、土産付、名目上僅かの参加費を取り、資格は本来は関係者であったものが空席を埋める必要から誰でも結構 になりマンネリ化。慰霊祭だけに参列し、これさえ終われば引き潮のようにいなくなるのは、東京見物の時間が少なくなるからである。
4)ときに一泊プランあり、昨年は上野水月ホテル欧外荘、隅田川くだり付。
4、役員に金時計の怪 名前だけの役員だった人に突然金時計が送られてきた という話がある。予算が余ったか、帳面上の辻褄は合っているのだろうが・・・・
5、慰霊、埋葬地調査、遺骨収拾等の旅費補助 これは知らしめる公示、広報のやり方が問われよう。受益者への扱いに不公平があるようなら問題である。私の目に耳にこの知らせが触れたことは一度もない。 6、「シベリア抑留者のための財団だより」はその名の通りであるか これは年2回発行の「財団」広報であるが、何部刷られ、誰に発信されているのか?因みに私宛に送られてきたことは一度もない。相沢派は会費無料の様だが、察するにこの派の名簿に基づいて送られているのではあるまいか。それなれば抑留者が受ける利益が偏向するのは当たり前で、公費をもって運営する仕事のこれ以上の不条理はない。
7、抑留史編纂事業とは 同じ敗戦の憂き目を見、大量の捕虜がシベリアに泣いたドイツでは、国家が編纂した実に膨大な抑留史があるという。また我が国に於いても民間有志の努力により菊池 寛賞に輝く功業がある。 * 捕虜体験記 全8巻 捕虜体験を記録する会編 「基金」の目的に恥じない後世に残りえる業績を期待したいが、編纂委員はどのような選考で選ばれたのか、滝沢一郎、新井弘一、飯田健一の方々では少々心許ないのではあるまいか?
*以上の纏めは不充分である。資料、文書が不足しているため、推測や一部に伝聞が混じっています。これを参考に各位もネタを集めて万全の材料にして頂きたい。いずれ総務委員会での質疑に乗せ、「シベリア抑留」の根源にまで遡った論戦を張るために・・・・ 「シベリア抑留」の兵士は捕虜か抑留者か 2004.2.29.
“われわれは捕虜ではなく、拉致された大量の抑留者なのだ。” 全強抑理事長青木泰三の老骨を打ち震わすような訴えが響き渡った。第二次大戦後、満州などからソ連軍に連行され、シベリアで過酷極まる強制労働に従事させられた日本の軍人、軍属は戦闘中に囚われた「捕虜」ではない。日本がポッダム宣言で降伏を受諾して終戦となった1945年8月15日の直後、不法にも「拉致」された「抑留者」なのだ・・・・“
この捕虜ではなく抑留者であるということが至極当たり前のことであり、また歴史的事実であるのか否か、これは単なる観念論争ではなく、実は戦後処理問題の重要な岐路であり、シベリア老兵たちの名誉回復が失敗に終わった原因の一つになっている。即ち捕虜ではないと言い、補償はソ連から と自民党に依拠した一派と、片や捕虜であるとして、国際法を盾に国に補償を求めた超党派(実質は野党派)に分裂し、豆を煮るに豆殻をもって煮られたのが「シベリア抑留」の運動であった。 戦後59年、さしもの激しい運動も鎮火したかに見える今日、これらは歴史にどう残されるべきか、論決のときであろう。
1、混乱の原因 1) 「俘虜ト認メス」とは「我方ノ国内的見解ニシテ敵側ノ見解ニヨリテ形而上俘虜タルノ取扱ヲ受クルモ帝国トシテハ道義上及軍律上共ニ俘虜トシテ取扱ハサルハ勿論自ラモ俘虜トシテ処スルノ要ナキ旨ヲ明示セラレタルモノナリ」 であるが、国際法上の問題としては、敵の管理下に入った軍人、軍属は一般に捕虜として扱われ、捕虜としての待遇を受け得るものであり・・・・ これは平成9年10月31日 全強抑会長相沢英之議員が、シベリア抑留者の身分があまりにも曖昧であるとして統一見解を示すよう、「質問主意書」を提出し、これに対し内閣総理大臣臨時代理小渕恵三が解釈を示したもので、以後これが国の正式見解となっている。 2) これを読み替えると 「国際法デハ捕虜デアルガ、国内法的見解トシテハ捕虜デハナイ」 と言うことになる。 3) 未曾有の敗戦に際し、敵の軍門に降るのを恥じて頻発した自決を、何とか食い止めるべく発せられた命令の残渣がその後も色濃く残ったもので、この玉虫色の曖昧さこそが混乱を生んだ元凶である。
2、捕虜と呼ばれるのを嫌う言い分の根拠 1) 青木理事長の“捕虜と言う不名誉な身分だけは何としても末代に残したくない” の絶叫は、戦陣訓に言う “生きて虜囚の辱めを受けることなかれ” の名残であって、極めて心情的かつ日本的な情緒論であり 2) “我々は昭和20年8月18日付大陸命1385号 の 「詔書煥発以後敵軍ノ勢力下ニ入リタル帝国陸軍軍人軍属ヲ俘虜ト認メス」 により自主的に武器を捨てたものであって、戦闘中に捕らえられた不名誉なものではない。” と言う自己満足を持っている。 * 因みに戦陣訓は法律でも法令でもなく、ときの陸軍大臣の一訓示に過ぎないのだが。 3、国際法における捕虜の定義 捕虜とは「1907年ヘーグ陸戦ノ法規慣例ニ関する規則」の第1款に明らかであるが、判り易く有斐閣「法律学小事典」の解釈に従うと これに対し捕虜だと言われることを嫌い、否定したい人々は *戦争が終わった後で *天皇の命により銃を捨てた *元戦闘員 であるが故に捕虜ではなく、抑留者であると言う。この3項目の見解の違いを以下検討したい。 1) 戦争の終了とは 8月15日はポッダム宣言の受諾を公式に認めた日であり、引き続き全軍に戦闘行為即時中止を命じているが、これは戦闘の終わりであって戦争の終わりではない。ソ連との戦争状態が終わったのは「日ソ共同宣言」発効の1956年(昭和31年)12月12日である。 2) ソ連軍に降伏した覚えはない 3) 戦闘員か文民か 5、「シベリア抑留」の捕虜は国の宝 10、この不条理を何処へ訴えるべきか シベリア抑留者が、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言6項後段に定める請求権放棄により受けた損害及び長期間にわたる抑留と強制労働によって受けた損害は、いずれも第2次世界大戦及びその敗戦によって生じた戦争犠牲または戦争損害に属するものであって、これに対する補償は憲法の予想しないところといわざるを得ない。したがって、上告人が、国に対し、その補償を求めることはできないというほかない。 とし、ソ連と日本に支払義務があるか、ないかの以前に そもそも捕虜に補償を求めることはできないというほかない。即ち 君たちに請求権はないのだよ。従って求めるもの、労賃そのものの有無は答えるまでもないことだ・・・と言うのである。すると「日ソ共同宣言」という受取人不在の場で、日ソという支払義務者二者が、賃金そのものを消してしまったことになる、請求権の相互放棄とは両国がお互いの支払責任を放棄する談合のことであったのか、そうであるなら “新しく締結する条約は・・・・この条約で定める捕虜の権利を制限するものであってはならない” とする1949年ジュネーヴ条約第6条に著しく違反するものである。 更に奇怪千万は、行政府の長たる内閣総理大臣臨時代理小渕恵三はその答弁書で “・・・・請求権の放棄については、国家自身の請求権を除けば、いわゆる外交保護権の放棄であって、日本国民が個人として有する請求権を放棄したものではない。” と、明らかに個人請求権の存在を認めながら、一方 最高裁は補償を求めることはできない と請求権の否定をいうが、これは明らかに二重基準であり、この二枚舌の矛盾を誰がどのように説明するのか。 「シベリア抑留」の強制労働は延べ労働日4億日、労働利益は10兆円を下るまいとされているが、この莫大な労働賃金が国家三権の最高府に手玉に取られ、インチキな手品のように目の前から消えることが果たして許されて良いものであろうか。
11、{シベリア抑留」の真相 「シベリア抑留」も発生以来既に59年、老兵は老い 多くは世を去った。もはや捕虜論争のときではない、なぜ「シベリア抑留」か を一気に洗い出し、真実を正さねばならないのだ。この悲劇の根源はただ一つ、ソ連への役務賠償のためであった。この明々白々たる事実を日ソ両国はひた隠しに隠し、一切触れようとしないのには理由がある。これを法的に認めれば忽ちサンフランシスコ条約26条に触れるからである。 “日本国がいずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理または戦争請求権処理を行ったときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼされなければならない” 戦後の講和条約で戦勝の各国は、甚大な被害を蒙ったに拘わらず、カイロ宣言と崇高な人道的見地から敗者の罪業を許し、寛大にも殆どが賠償権と領土の割譲を放棄したのであるが、独りソ連のみは僅か一週間の介入にも拘わらず法外な戦果を手にしているのである。領土問題はともかく、「シベリア抑留」による労働利益は莫大で、これをドイツ捕虜と同じく役務賠償とするならば他の戦勝国が黙っている筈はなく、またそのことよりも非人道的事件の露見を恐れるあまり、真実を抹殺しようとする日ソ両国のアンフェアは世界の鋭い批判を免れないであろう。
12、我が国の対応 これは昭和53年6月8日、参議院内閣委員会における政府答弁で、役務賠償に対する国の一貫した見解である。 |
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