第3章
  2、枯蟷螂 三角でもの 考える

  <その1> 司法がダメなら国会があるさ           2004.2.19〜

イラク派兵とシベリア抑留

「平和祈念事業特別基金」とは
何であったのか
「シベリア抑留」の兵士は
捕虜か抑留者か

イラク派兵とシベリア抑留  <ある新聞への投稿>          2004.2.19.

 1月27日、私たちの闘いがまた一つ終わった。最高裁は「シベリア抑留」の未払い賃金請求を棄却し、深刻な人権侵害の回復もなされないまま敗訴が確定した。

私は国の命令で召集され、スターリンの命令で拉致され、飢え、寒さ、強制労働で多くの仲間を失い、地獄の底から辛うじて帰還した。この民族はじまって以来の悲劇はソ連に対する役務賠償の尊い犠牲であった。夜毎夢見た懐かしの母国は、この受難の兵士を温かく迎えたであろうか、待っていたのは思いもよらぬ冷たさで、シベリア帰りはアカだアカだと敬遠され、マッカーサーの指令で警察の厳しい監視を受け、寒々とした苦しみと暮らしの辛さを舐めさせられた。シベリア帰りは戦争が引き起こした被害者であると同時に捕虜を蔑視した軍国主義教育の被害者でもあり、更にアカ呼ばわりされた冷戦の被害者であった。

世界の捕虜が勇者としてそれぞれの母国から手厚い補償を受けている中で、独りシベリア捕虜だけが賃金はおろか、国は抑留中の食費さえも払おうとしないのである。同じ日本兵でも南方からの帰還兵には賃金を支払う と言う不公平も是正されず、この国は自浄能力の有無を疑われるほどの因業ぶりである。これら不条理が親とも頼む祖国の仕打ちだけに、受ける絶望と悔しさはシベリアの三重苦以上に心を砕くのである。これほどの理不尽がこのままで済む筈はない、いつかは救済されるであろうと 心のどこかで信じてきた。しかし、余命乏しい私は国のこの冷酷非情が本心であり、弊履のように老兵を捨てるであろうことを認めざるを得ないのである。「シベリア抑留」そのものを老兵の死とともに過去の底深く埋葬しようとする意志が明らかであるからだ。

敗戦から59年、自衛隊が海外に初めて派兵された。かって、私たちは“お国のために死んで来い” と背中を押されて出征したが、いま武装した日本の青年は“一人も死なないように ”と言われている。政府は万一亡くなった時の弔慰金を9千万に引上げたが、この手厚い厚遇に比べシベリアは、これが同じ国の兵士に対する扱いであるのか。現在、民主党が私たちに特別給付金を支払う法案を準備してくれているが、総額は1千億円、1人当りの給付額は30万円。自衛隊派遣手当ての僅か10日分に過ぎないが、これすらも自民党議員は「ノー 」と言う。

長年、私たちは“捕虜の権利を守れ” と主張し、ジュネーヴ条約の追加議定書の批准を求めてきたが、今回自衛隊の海外派兵につじつまを合わせるために、漸く今国会で批准し、関連国内法も制定すると言う。あまりのご都合主義にあきれる。平均年齢80歳を越えたシベリアの老兵は、最後の戦いの中で「愛国心」の放棄を宣言するつもりである。たまらなく寂しく、悲しいことだが、「祖国」を愛することができないまま、私たちは旅だっていかなければならないのだろうか?イラク派兵は新しい「有事」に突入したが、私たちの「戦後」はまだ終わっていない。

   「平和祈念事業特別基金」とは何であったのか      2004.2.21.

 新聞はこの独立行政法人(以下「基金」という)の解散を政府、自民党が検討中と報じているが、昭和63年制定以来16年に渉って行われた慰藉事業とは、とりわけその下請けを独占した「財団法人全国強制抑留者協会」(以下「財団」という)の所業については抑留者として承知しておく必要がある。

 “「基金」は今次の大戦における尊い戦争犠牲者を銘記し、かつ、永遠の平和を祈念するため、関係者の労苦について国民の理解を深めること等により、関係者に対し慰藉の念を示す事業を行うことを目的とする。” との額面に添ったものであったかどうか、 解散を前に充分な精査、検討を加えたい。

第一 概論

1、この「基金」はシベリア抑留の正当な補償の要求を、ごく微細な慰藉という名の涙金で糊塗し、なおかつ、関係者の死に絶えるまでの時間を稼ぐ策略であり、現職大臣がいみじくも言う “「基金」は元々 国がやってもいいことを代行しているんですね、ダミーなんですよ、これ。ある意味では渋々なんですね。” の答弁のとおり、初めから真心の一欠けらもない見せ掛けだけの事業であった。

2、その下請けを務める「財団」は国を父に、自民党を母として産声を挙げた権謀術数の申し子で、全額出資者たるオーナーの意を戴して燃え上がる補償要求の炎をそらし、代えるに恩給加算や“補償はロシアから” 等、出来そうもない虚構を唱えて時を稼ぎ、その間 身内中心の偏向した慰藉事業を独占するという典型的な毒饅頭組織であった。

3、この「財団」を信用した人々は、少数の幹部に最後の最後まで裏切られたが、これは大戦末期にトクな和睦を願うあまり、選りによって大悪党のスターリンに仲介を頼んだ「近衛要請」を髣髴させる思いである。

第二 その七つの問題点について

1、モスクワ、シンポジゥムの怪

 平成5年から平成15年まで延々11回に渉り行われた恒例行事は一体なんであったのか、民間団体の催しとは言え これは「基金」の目的、性格に合った事業であるのか、所管である総務省の見解を求める。またこと国際的な問題を孕む折衝は外務省も了承済のものであるのかどうかを承りたい。

 1)これらは毎年行われ、第7回を例に挙げれば述べ10名が参加。なかには厚生労働省課長、大使館の参事官も、また御用学者3名を含む多彩な顔ぶれだが、これは「基金」の目的を遥かに超えた事業であり、民間の分に過ぎた専横だが、この参加者はシベリア抑留者の総意を代弁する資格が全くない。

 2)平成13年9月21日、相手側の「相互理解協会」(A.A.キリチェンコ会長)との間に「合意文書」を取り交わしているが、その1に

 “ ソビエト指導部の命令により強制的にシベリアに連行された日本人は、捕虜でなく抑留者であった。ロシア当局はこの事実を公文書において明示し、この行為に対して謝罪し、かつ補償の不可避を認める。”との文言があるが、これは外務省の承知の上のことであるのか、どうか?この場合、「日ソ共同宣言」6項の “両国はすべての請求権を相互に放棄する” との関連も合わせて説明されたい。

 3)捕虜かどうかの身分の確定に関する我が国の見解は、相沢英之議員の質問主意書に答えた小渕答弁書(平成9年11月28日)で明らかなことである。即ち“ 国内的には俘虜の取り扱いを受けないが、国際法上その捕虜としての待遇を受ける権利を失うものではない” 今回のこの政府見解に反する合意は「財団」と「基金」の意志であるのか、どうか?

 4)相手側団体の資格と権能について、このような民間の行動が罪のない外交ごっこのうちは見逃されても、お遊び料が莫大である。国費の無意味な乱費は厳しく問われなければならない。

2、幻の「抑留加算」

 抑留中の軍人恩給加算を3ヶ月とせよ の呼び掛けは、「補償要求」の道を自ら絶った「財団」の苦肉の策として平成10年ごろから浮上した。10万円だけの慰藉だけでは最早大衆の不満を抑えられなくなり、その目先を逸らせる戦法であるが、そもそもが無理な注文であった。ドイツのように抑留月×いくら (単価は累進性)にしておけばよいものを 12年で切り捨てた欠点がどうにもならないのである。3年に加算した所で欠格が解消できないこと、またシベリアだけのことでは収まらないのが目に見えている。

 初めから不可能なことを知りながらやり出すのが自民党の「議員連盟」で、知恵者の本音は別にあり、死ぬまで引き延ばして時を稼ごうとの策略であった。火を付けては消すマッチ、ポンプを5年ほど繰り返し、頃はよしと見て ハイそれまでよ で終わり。多勢を誇る与党なら議員立法を組んで強引に押し出せば出来た話をやらなかったのは、元々その気がないからで、国と与党の八百長は見事「財団」幹部を誑かせたのである。

3、慰藉事業の怪

 1)活発な支部に於いては地元で慰霊祭、展示会、労苦調査、語り継ぐ会等の行事を行うが、費用のほぼ倍額を中央へ請求し、補助金、助成金として交付を受けている。G県支部平成14年度収支決算によれば、本部より348万円を受け取り、実費支出178万円、ほぼ倍額の水増し利得を役員費、事務費、其の他に当てている。(別添)

 2)会費は徴収していないが、上記の利得分より31万円を計上し取り繕っている。

 3)年に一度の東京慰霊祭会計は本部で計上のようだが、上京バス代、弁当、土産付、名目上僅かの参加費を取り、資格は本来は関係者であったものが空席を埋める必要から誰でも結構 になりマンネリ化。慰霊祭だけに参列し、これさえ終われば引き潮のようにいなくなるのは、東京見物の時間が少なくなるからである。

 4)ときに一泊プランあり、昨年は上野水月ホテル欧外荘、隅田川くだり付。

4、役員に金時計の怪

 名前だけの役員だった人に突然金時計が送られてきた という話がある。予算が余ったか、帳面上の辻褄は合っているのだろうが・・・・

5、慰霊、埋葬地調査、遺骨収拾等の旅費補助

 これは知らしめる公示、広報のやり方が問われよう。受益者への扱いに不公平があるようなら問題である。私の目に耳にこの知らせが触れたことは一度もない。

6、「シベリア抑留者のための財団だより」はその名の通りであるか

 これは年2回発行の「財団」広報であるが、何部刷られ、誰に発信されているのか?因みに私宛に送られてきたことは一度もない。相沢派は会費無料の様だが、察するにこの派の名簿に基づいて送られているのではあるまいか。それなれば抑留者が受ける利益が偏向するのは当たり前で、公費をもって運営する仕事のこれ以上の不条理はない。

7、抑留史編纂事業とは

 同じ敗戦の憂き目を見、大量の捕虜がシベリアに泣いたドイツでは、国家が編纂した実に膨大な抑留史があるという。また我が国に於いても民間有志の努力により菊池 寛賞に輝く功業がある。

 * 捕虜体験記 全8巻  捕虜体験を記録する会編

「基金」の目的に恥じない後世に残りえる業績を期待したいが、編纂委員はどのような選考で選ばれたのか、滝沢一郎、新井弘一、飯田健一の方々では少々心許ないのではあるまいか?

以上の纏めは不充分である。資料、文書が不足しているため、推測や一部に伝聞が混じっています。これを参考に各位もネタを集めて万全の材料にして頂きたい。いずれ総務委員会での質疑に乗せ、「シベリア抑留」の根源にまで遡った論戦を張るために・・・・

    「シベリア抑留」の兵士は捕虜か抑留者か      2004.2.29.

 

 “われわれは捕虜ではなく、拉致された大量の抑留者なのだ。” 全強抑理事長青木泰三の老骨を打ち震わすような訴えが響き渡った。第二次大戦後、満州などからソ連軍に連行され、シベリアで過酷極まる強制労働に従事させられた日本の軍人、軍属は戦闘中に囚われた「捕虜」ではない。日本がポッダム宣言で降伏を受諾して終戦となった1945年8月15日の直後、不法にも「拉致」された「抑留者」なのだ・・・・“
 と言う至極当たり前の歴史的事実を戦後58年たって初めて公式の場で叫んだのであった ・・・・。 と産経新聞は報じている。(2003.11.05.)

 この捕虜ではなく抑留者であるということが至極当たり前のことであり、また歴史的事実であるのか否か、これは単なる観念論争ではなく、実は戦後処理問題の重要な岐路であり、シベリア老兵たちの名誉回復が失敗に終わった原因の一つになっている。即ち捕虜ではないと言い、補償はソ連から と自民党に依拠した一派と、片や捕虜であるとして、国際法を盾に国に補償を求めた超党派(実質は野党派)に分裂し、豆を煮るに豆殻をもって煮られたのが「シベリア抑留」の運動であった。

 戦後59年、さしもの激しい運動も鎮火したかに見える今日、これらは歴史にどう残されるべきか、論決のときであろう。

1、混乱の原因 

1) 「俘虜ト認メス」とは「我方ノ国内的見解ニシテ敵側ノ見解ニヨリテ形而上俘虜タルノ取扱ヲ受クルモ帝国トシテハ道義上及軍律上共ニ俘虜トシテ取扱ハサルハ勿論自ラモ俘虜トシテ処スルノ要ナキ旨ヲ明示セラレタルモノナリ」 であるが、国際法上の問題としては、敵の管理下に入った軍人、軍属は一般に捕虜として扱われ、捕虜としての待遇を受け得るものであり・・・・ 

  これは平成9年10月31日 全強抑会長相沢英之議員が、シベリア抑留者の身分があまりにも曖昧であるとして統一見解を示すよう、「質問主意書」を提出し、これに対し内閣総理大臣臨時代理小渕恵三が解釈を示したもので、以後これが国の正式見解となっている。

 2) これを読み替えると

 「国際法デハ捕虜デアルガ、国内法的見解トシテハ捕虜デハナイ」

と言うことになる。

 3) 未曾有の敗戦に際し、敵の軍門に降るのを恥じて頻発した自決を、何とか食い止めるべく発せられた命令の残渣がその後も色濃く残ったもので、この玉虫色の曖昧さこそが混乱を生んだ元凶である。

2、捕虜と呼ばれるのを嫌う言い分の根拠

 1) 青木理事長の“捕虜と言う不名誉な身分だけは何としても末代に残したくない” の絶叫は、戦陣訓に言う “生きて虜囚の辱めを受けることなかれ” の名残であって、極めて心情的かつ日本的な情緒論であり

  2) “我々は昭和20年8月18日付大陸命1385号 の 「詔書煥発以後敵軍ノ勢力下ニ入リタル帝国陸軍軍人軍属ヲ俘虜ト認メス」 により自主的に武器を捨てたものであって、戦闘中に捕らえられた不名誉なものではない。” と言う自己満足を持っている。

 * 因みに戦陣訓は法律でも法令でもなく、ときの陸軍大臣の一訓示に過ぎないのだが。

3、国際法における捕虜の定義

 捕虜とは「1907年ヘーグ陸戦ノ法規慣例ニ関する規則」の第1款に明らかであるが、判り易く有斐閣「法律学小事典」の解釈に従うと

 戦争ないし武力紛争において *敵に捕らえられた *戦闘員 の三条件を充たすものであれば捕虜であるとしている。

  これに対し捕虜だと言われることを嫌い、否定したい人々は *戦争が終わった後で  *天皇の命により銃を捨てた *戦闘員 であるが故に捕虜ではなく、抑留者であると言う。この3項目の見解の違いを以下検討したい。

1) 戦争の終了とは 8月15日はポッダム宣言の受諾を公式に認めた日であり、引き続き全軍に戦闘行為即時中止を命じているが、これは戦闘の終わりであって戦争の終わりではない。ソ連との戦争状態が終わったのは「日ソ共同宣言」発効の1956年(昭和31年)12月12である。

 “戦争やめた” と一方的に叫んだところで、そう簡単には終わらない。戦争には相手もあればルールもあり、戦闘が終わったにしても、戦争まで終わったわけではない。

2) ソ連軍に降伏した覚えはない

 “敵の管理下に入れ と言う大命に従って自ら銃を捨てたのであるから捕虜ではない” とは此方の言い分で、相手はそうは思わない。無条件降伏の軍隊は無条件で捕虜である。・・・ が世界の常識で、世界の常識は得てして日本の非常識となる。

 捕虜を死に勝る恥辱とした日本軍が “捕虜ではない。” と強弁するのを幸いに、イギリスやソ連は当初我々の身分を「降伏敵国人員(S,E,P)」とした。この「一般抑留者」であればヘーグ条約に基づく「軍事捕虜(P,O,W)」と異なり、名誉ある地位も同国軍人並みの待遇も保証しなくて良く、労働による賃金すら払う必要がないからである。しかし、この扱いは国際赤十字の知る所となり、1947年にはP,O,W並みの改善を勧告され是正した経緯がある。以後国際法に基づいた管理を受け、未払い賃金には銘々に労働証明書が交付されるようになったことは周知の通りである。国際法はこの通り軍事捕虜と降伏敵国人員の二つの他になく、抑留者とは後者になるが、嫌だと言い張った所で捕虜の処遇を受けた事実まで否定できるものではない。

 こんな話がある。1945年8月19日、シベリア、ジャリコーボにおいての会見で、関東軍参謀総長秦彦三郎中将が “戦闘行動終了後に抑留された者は捕虜ではない” と主張したのに対し、ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥は “否、無条件降伏の軍隊は全員捕虜である。” と答えている。

3) 戦闘員か文民か

 戦闘員でありたいのであれば軍隊を離れて平服をまとい、娑婆に住んでいれば良いものを私は兵営を逃げ出す勇気がなく、迂闊にも隊伍にいたため捕虜の憂き目を見た。陸軍二等兵、何処から見てもまぎれもない兵士であり、ようやく軍隊の足を洗ったのは後年の舞鶴ダモイの時であって、それまではの字が付かない立派な兵士であった。抑留者だと言う方々も軍人であることまでは否定はできないであろう。だからこそ抑留中も軍籍として軍人恩給の対象になり、殉難した仲間は公務と看做されて扶助料を受け、靖国へも祀られる。これらはいずれも軍人であるからで、文民の抑留者では何一つ得ることができない特権である。

 軍恩加算改善を国会に訴える青木理事長が捕虜ではなく、抑留者だと言ったのでは理屈に合わない。

4、シベリア抑留者の国際的地位

1) 抑留中の私は日本軍の兵士であると同時に、国際法に定める捕虜という二重の身分を持ち、その権利義務に拘束されるが、“そうではない” といくら否定しようと世界には通用しないのである。例えばオウムの教祖がいくら “俺は救世主で別格なのだ ” と主張しても 世間や法律がそうは認めないのと同じである。

2) 法廷での訴えも捕虜の権利を巡ってであり、抑留者としての争いではない。労働賃金や労働傷害を求める権利は国際法によって確立しているが、文民である抑留者にその保障はない。従って捕虜でないという人は自らの権利を自らの手で放棄しようとする行為に他ならない。

5、「シベリア抑留」の捕虜は国の宝

 “ あの者たちは国の宝ぞ” とは関東軍報道部長長谷川宇一大佐が長い抑留の末に帰還したとき、さる高貴が漏らされたお言葉だと聞いている。

 皇軍と自称した日本軍の兵士は被害者であった半面、無辜の多くを殺めた罪深い加害者でもあり、国家と国民を破滅の淵にまで追い込んだ負の部分は率直に認めざるを得ない。その中にあって「シベリア抑留」の兵士は国体護持の尊い犠牲となり、また国と国民の身代りとなってソ連への役務賠償に膏血を絞られ、これら苦難の献身は建軍以来かって類を見ない偉大な功績である。それがどうして末代に残したくない不名誉な身分であるのか。戦場で万全を尽くした後はいたずらに死を急がず、二度でも三度でも国家に尽くすことこそが真の勇者である。浅薄な戦陣訓的短慮は敗戦と言う高価な代償をもって清算された筈ではなかったか、貴方は海外に派遣される自衛官に再び“生きて虜囚の辱め・・・・” を説くおつもりであるのか。

6、日本人の捕虜観

 今年は日露戦争100周年と言うことで、私はゆくりなくも長谷川 伸労作の「日本捕虜志」を思い浮かべたのであった。明治期における日本人の捕虜観が世界に冠たるものであり、広く称賛を浴びた数々が全編に述べられている。これら敵国捕虜を礼をもって遇した故事を知る東京裁判のローリング判事は “日清、日露の戦役で日本軍の振舞は世界の敬意をもって取沙汰されているのに、どうして・・・・” と慨嘆しているが、私はこれを読むとき身の置き所のない羞恥を覚えるのである。敬されるべき捕虜が一転して恥とされたのは僅か100年足らずの、それも戦陣訓以来のことであり、本来は作者が言う “これらは日本固有の武士道的教育で成長し、古今を通じて常に義理と人情を尊んで捕虜を遇してきた名もなき庶民の心であった。” のである。

7、結論として

 以上の考察を纏めるに、法の順位からの判断も必要であろう。横田喜三郎著「新憲法における条約と国内法の関係」国際法考察の憲法98条解釈によれば、国際法、条約は明らかに国内法の上位にあることから、「シベリア抑留」が国際問題である限りにおいては 答えは捕虜以外ではない。

8、捕虜は奴隷であるのか

 「シベリア抑留」の兵士が捕虜であるなれば、その間の義務及び権利は国際法の定める所に従わねばならない。これらは1907年に制定をみた「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(1907ヘーグ条約)」以後 1949ジュネーヴ条約に至る一連の流れであるが、これに加盟、批准した我が国が誠実に遵守することは上記の憲法98条に示されたことである。しかし それは現実に守られているであろうか? 例えば “俘虜ノ労銀ハ支払ルヘシ ” とした労働賃金若しくはそれに代わる補償を我が国は支払っているか、否である。世界の捕虜や我が国でも南方や中国から帰還した捕虜が、それぞれ母国から受け取っているのに、独り「シベリア捕虜」にのみ 国は払おうとしないのである。労働に対して正当な賃金が与えられないのは奴隷であるが、「シベリア捕虜」はまさに愛する祖国から奴隷の扱いを受けているのである。

9、捕虜の労賃は自国払い

 「シベリア抑留」の賃金受取人は捕虜であり、支払い義務者は抑留国であるソ連、ま   たは捕虜の所属国の日本以外ではないことから、その支払責任は両国のどちらであ   るのか、それさえ判れば問題は解決で、1956年締結の「日ソ共同宣言」6項後段は

 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、1945年8月9日以来の戦争の結果として生   じたそれぞれの国、その団体及び国民のそれぞれ他方の国、その団体及び国民に対する   すべての請求権を、相互に、放棄する。

 と定めたが、これによりソ連は 本来利益を得た国が払うべき支払義務を免れ、代    わって放棄した日本に支払責任が生じたことは自明である。世界も国際法に従って    自国民、自国払い方式の所属国制をとり、捕虜はそれぞれ母国から手厚い支給を受   けている。であるのに我が国最高裁は実に驚くべき判決を下したのである。

10、この不条理を何処へ訴えるべきか

 シベリア抑留者が、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言6項後段に定める請求権放棄により受けた損害及び長期間にわたる抑留と強制労働によって受けた損害は、いずれも第2次世界大戦及びその敗戦によって生じた戦争犠牲または戦争損害に属するものであって、これに対する補償は憲法の予想しないところといわざるを得ない。したがって、上告人が、国に対し、その補償を求めることはできないというほかない。

 とし、ソ連と日本に支払義務があるか、ないかの以前に そもそも捕虜に補償を求めることはできないというほかない。即ち 君たちに請求権はないのだよ。従って求めるもの、労賃そのものの有無は答えるまでもないことだ・・・と言うのである。すると「日ソ共同宣言」という受取人不在の場で、日ソという支払義務者二者が、賃金そのものを消してしまったことになる、請求権の相互放棄とは両国がお互いの支払責任を放棄する談合のことであったのか、そうであるなら “新しく締結する条約は・・・・この条約で定める捕虜の権利を制限するものであてはならない” とする1949年ジュネーヴ条約第6条に著しく違反するものである。

 最高裁は国際法が認める未払い賃金の支払いを否定したが、これは世界に先駆けて捕虜の奴隷制を容認した画期的な判決である。

 更に奇怪千万は、行政府の長たる内閣総理大臣臨時代理小渕恵三はその答弁書で

 “・・・・請求権の放棄については、国家自身の請求権を除けば、いわゆる外交保護権の放棄であって、日本国民が個人として有する請求権を放棄したものではない。”

 と、明らかに個人請求権の存在を認めながら、一方 最高裁は補償を求めることはできない と請求権の否定をいうが、これは明らかに二重基準であり、この二枚舌の矛盾を誰がどのように説明するのか。

 「シベリア抑留」の強制労働は延べ労働日4億日、労働利益は10兆円を下るまいとされているが、この莫大な労働賃金が国家三権の最高府に手玉に取られ、インチキな手品のように目の前から消えることが果たして許されて良いものであろうか。

11、{シベリア抑留」の真相

 「シベリア抑留」も発生以来既に59年、老兵は老い 多くは世を去った。もはや捕虜論争のときではない、なぜ「シベリア抑留」か を一気に洗い出し、真実を正さねばならないのだ。この悲劇の根源はただ一つ、ソ連への役務賠償のためであった。この明々白々たる事実を日ソ両国はひた隠しに隠し、一切触れようとしないのには理由がある。これを法的に認めれば忽ちサンフランシスコ条約26条に触れるからである。

 “日本国がいずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理または戦争請求権処理を行ったときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼされなければならない”

 戦後の講和条約で戦勝の各国は、甚大な被害を蒙ったに拘わらず、カイロ宣言と崇高な人道的見地から敗者の罪業を許し、寛大にも殆どが賠償権と領土の割譲を放棄したのであるが、独りソ連のみは僅か一週間の介入にも拘わらず法外な戦果を手にしているのである。領土問題はともかく、「シベリア抑留」による労働利益は莫大で、これをドイツ捕虜と同じく役務賠償とするならば他の戦勝国が黙っている筈はなく、またそのことよりも非人道的事件の露見を恐れるあまり、真実を抹殺しようとする日ソ両国のアンフェアは世界の鋭い批判を免れないであろう。

12、我が国の対応

 “ソ連が大きな利益を得たのは事実でありましても、法的に我国として、これを賠償の一つの形態として認めることはないわけであります。”

 これは昭和53年6月8日、参議院内閣委員会における政府答弁で、役務賠償に対する国の一貫した見解である。

 事実上はそうであったとしても法的に役務賠償であるとは、国は口が裂けても言えない立場にある。従って未払い賃金をソ連に代わって元捕虜に払う形は明らかに役務賠償とみなされ、他国の追加請求を免れかねない。国にとって“捕虜の労銀は支払わるべし”とする国際法は鬼門であり、声を大にして叫ぶ捕虜は誠に苦々しき存在なのである。それがため国は捕虜の主張に耳を塞ぎ、激しい補償要求の声を避けようとのあらゆる手段を弄し、漸くいま成功裏に終焉を迎えようとしている。ここ数年を経ずして老兵は死に絶え、恥ずべき不始末を辛うじて過去の中へ埋葬できるからである。

13、「シベリア抑留」の遺言

  しかし、いくら国が口を拭おうと歴史をまで暗殺できるものではない。この民族的屈辱を黙視し、犠牲を放置し、国家のために惨苦を舐めた60万を弊履の如く捨て去った不祥事が綺麗さっぱりと消え失せるわけはない。我々は次代の心ある同胞に、特に歴史家に後事を託したい。国の不条理を最後まで糾弾せんとしたシベリアの老兵が 僅かでも存在したことが後世に残されるとすれば これ男子の本懐である。

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