第2章
  1、大阪高裁第82法廷

  <その6> 大正生まれは口が下手              2001.10.2

控訴人準備書面 6                    2001.10.2.

 今回は被控訴人国に対して当初より回答を求め続けたに拘らず、未だ回答がない幾つかの事項について、当方の主観に基く主張を申し述べたい。

第1、「シベリア抑留」は憲法にも法律にも、また国際法にもない「承詔必謹」という超法規、国家権力により強行された惨事である。

序、「シベリア抑留」と云う古今未曽有の民族受難がどうして惹起されたか、これこそが本事案の焦点であり、この解明に審理を尽くさない限り公正な判決はあり得ない。控訴人らはその理由として、第一にスターリン独裁政権の暴虐をあげ、第二に我国の国際人道法無視に基く棄兵棄民政策によるものと証拠を挙げて主張し、その責任を糺して国に謝罪と償いを請求しているのである。

即ち「シベリア抑留」は国体護持を願うため、スターリンに宥恕を乞う必要から関東軍の兵士60万を役務賠償としてソ連に引き渡した事件である。この由々しき事実がいかなる法的根拠によって行われたものであるのか、国の見解を糾すべく平成11年8月20日原告第二準備書面において釈明を求めた。即ちその(3)において “原告からみれば「シベリア抑留」はすべてが秘密に取り扱われ、何の法律によるものかも明らかにされず、当事者(被害者)にはその後約54年たった今に至るも伝達されず、社会に対しては今以て真実が発表されていない。それ故原告らは「シベリア抑留」の承認は如何なる法律に基づくものか” と釈明を求め、更に以後随所でことあるごとに督促している。しかしながら今日に至るも返答はなく、控訴人らは止むを得ず当方の考えに基づいて以下の通り主張するので承知ありたい。

1、以下1945年(昭和20年)後半の出来事を抜き出し、順を追って立証する。

1) 7月12日 天皇は近衛文麿を召し“連合国との和平を講ずるよう、その仲介をスターリンに依頼すること” を命じ、条件として「和平交渉の要綱」を裁下した。

 その条件の第一は (一)の(イ) 国体の護持は絶対にして、一歩も譲らざることであり、 (三)の(ロ)に 海外にある軍隊は現地において復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、止むを得ざれば、当分その若干を現地に残留せしむることに同意す。また解説(三)の(ロ)に 若干を現地に残留とは、老年次兵は帰国せしめ、弱年次兵は一時労務に服せしむること等を含むものとす…・とある (甲第24号証)

2) 7月26日 米英支三国は「ポツダム宣言」を通告。その第9項に“日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後、各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的生業ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ“ とある。

3) 8月9日 ソ連は日ソ中立条約を破棄し満州侵攻、大本営は直ちに大陸令第1374号を発令、全面反撃を命ず。

4) 8月10日 大陸指第2539号発令“帝国全般ノ戦況上、朝鮮ハ最後ノー線トシテ絶対的ニ保衛スルヲ要スルモ、満州全土ハ前進基地トシテ止ムヲ得サレハ、又、コレヲ放棄スルモ可ナリ”

5) 大本営参謀部第五課 (対ソ作戦) 主任参謀朝枝繁春中佐は、さきに起草した大陸令1374号の八項に基き大陸指を以下の通り作成し、参謀総長梅津美治郎大将の決裁を得、8月10日より8月15日迄新京へ飛び、関東軍首脳に伝達

@ 関東軍総司令官ハ米ソ対立抗争、国際情勢ヲ作為スルタメ、成ルヘク赤軍ヲシテ、速ヤカニ朝鮮海峡マテ進出シムル如ク作戦ヲ指導スヘシ

A 戦後、将来ノ帝国ノ復興再建ヲ考慮シ、関東軍総司令官ハ成ルヘク多クノ日本人ヲ大陸ノ一角ニ残置スルコトヲ図ルヘシ。コレガ為、残置スル軍、民聞ノ日本人国籍ハ、如何様ニ変更スルモ可ナリ。 (甲第80号証)

6) 8月11日 これらの指令により関東軍司令部は通化復廓陣地へ移動

7) 8月12日 最高指導者会議 (六人委) は対ソ戦略を次の通り定む。

@ 帝国は米英ソ支に対し活発なる作戦を実施す、但し当分ソに対しては宣戦を布告せざると共に、為し得る限り事態の改善に勉むるものとす。

A 略

B 戦争終結に関し、更に敵側より提案ある場合に於ては帝国は再び対敵交渉を行うことあり、この際はソを米英支より分離することに勉む。

8) 8月14日 日本政府は山田乙三満州国特命全権大使宛緊急電を発し “ソ連の庇護の下に出来るだけ多くの同胞を大陸に残置させ、日本の復興を将来に期す居留民の現地定着” を命じた。

9) 8月14日 御前会議においてポツダム宣言受諾決定。 参謀次長河辺虎四郎中将は新京に飛び、“皇軍は飽迄御聖断に従い行動す“ の「承詔必謹」を関東軍司令官山田乙三大将に伝達、反する者は反逆者なりの徹底を命じて自らは慌しく帰朝。

10) 8月15日 終戦の大詔下さる。

2、 8月15日という区切りで中締めをしておきたい。

1) 以上を概観すれば我国中枢のソ連への畏怖は甚しく、虎林虎頭等最前線将兵や開拓民の甚大な犠牲にも目をふさぎ、関東軍司令部は早くも通化の山中へ逃げ込み、ソ連には宣戦布告も見合せて満州を明け渡し、遙か朝鮮海峡まで赤軍を誘導して米ソの角逐を謀り漁夫の利を得んとする。またソ連の庇護の下に兵士や在留邦人の労力を提供して大陸残留を乞うという、あきれ返った企てが浮び上がるのである。

 これらは後日の朝枝文書 
(甲第25号証) の第四、今後ノ処置一の一般方針に、内地ニ於ケル食糧事情及思想経済事情ヨリ考フルニ既定方針通リ大陸方面ニ於テハ在留邦人及武装解除後ノ軍人ハソ連ノ庇護下ニ満鮮ニ土着セシメテ生活ヲ営ム如クソ連側ニ依頼スルヲ可トス。 二の方法に、@ 患者及内地帰還希望者ヲ除ク外ハ速ヤカニソ連ノ指令ニヨリ各々技能ニ応スル定職ニ就カシム A 満鮮ニ土着スル者ハ日本国籍ヲ離ルルモ支障ナキモノトス とあり、これに対して関東軍総参謀長秦 彦三郎中将は同意書において“全般的ニ同意ナリ” としている。 (甲第25号証)

2) 以上が我国中枢の既定方針であり、対ソ基本方針であるが要約すれば

@ ソ連への恭順 (国際法による権利主張の放棄)

A 戦後の米ソ角逐を意図した謀略

B あわよくば の大陸(満州)残留策

この三つがからみ合った戦争ゴッコの如き発想であるが、これら少児的戦略は次により崩壊することになる。

@ 満鮮の権益は我国に代ってソ連が引継き、そのまま主人になるであろうとの錯覚

A 満鮮は誰の土地で誰のものかを忘れていたこと、及び日本及び日本人への恨みの深さに気が付いていなかったこと。

Bスターリンは役者が何枚も上であったこと。

3) これら対ソ基本方針の其の後の変遷は次の通り

3−1、8月17日 大陸令により即時戦斗行動中止

3−2、8月18日 大陸令1385号3項により “詔書換発以後、敵ノ勢力下ニ入リタル帝国陸軍軍人軍属ヲ俘虜ト認メス” (甲第22号証) これら天皇の聖旨を伝達し停戦の徹底を期すため竹田宮恒徳王を関東軍に派遺

3−3、8月18日 軍令睦甲第116号「帝国陸軍復員要榎」発令 “復員スヘキ部隊ハ帝国全陸軍部隊トス” とし全軍に復員を命じているが、その三において“前記要領、細則ニ基ク関東軍ノ復員(復帰)ノ実施ニ関シテハソ側ト折衝ノ上別ニ定メラル“ とし、ここにはっきり関東軍は別だと申し渡している。

即ち米英支の連合軍に投降した将兵はポツダム宣言9項に基づいて復員を命じ、関東軍は近衛要請に基く賠償労役提供への道を歩みはじめたのである。(甲第81号証)

4−1、8月19日 ジヤリコーボでの降伏指令受領。

ソ連は総司令官ワシレフスキー元帥以下多数、関東軍側は参謀総長秦 彦三郎中将、参謀瀬島竜三中佐、ハルピン総領事(通訳)宮川船夫外、この会談は停戦協定または交渉というようなものではなく、ソ連軍の一方的な命令下達であった。

@ 秦・…戦斗行動終了後に抑留された者は捕虜ではない。

 ワ…・・否、無条件降伏の軍隊は全員捕虜である。

A 秦・・・・日本人が常食とする米を給与されたい。

ワ…・・一日黒パン300グラム、米300グラムを与える。

※ 60万の兵士に毎日黒パンを供給できる釜は満州に無く、この時点でシベリア連行は暗示されている。

B 兵士の解放、送還に関わる話は一切されていない。

4−2、我が代表はポツダム宣言第9項による “武装解除後の各自の家庭に復帰”をひと言も言っていないのである。また我国は国際法に従って停戦ではなく、休戦を協議すべきであった。1909ハーグ条約第20条の ”平和克復ノ後ハ成ルヘク速ニ俘虜ヲ其ノ本国ニ帰還セシムヘシ“ また1929ジュネーブ条約第75条の “交戦者カ休戦条約ヲ締結セントスルトキハ右交戦者ハ原則トシテ俘虜ノ送還ニ関スル規定ヲ設クヘシ“ 捕虜がいつまで、どこへ、どのように を取り決めることは休戦協定の重要な中心テーマであり、これを怠ったのは捕虜の拉致を阻止する気構えどころか、はじめから提供する気であったと云われても返答はできないであろう。

5) 8月19日 朝枝繁春参謀は大本営参謀総長梅津美治郎の命により勅命を奉じ関東軍へ派遺さる。

6) 朝枝参謀は早速関東軍首脳と会い、大本営の既定方針に基く「承詔必謹」とその詳細を伝達

7) 8月21日 朝枝は満州進攻軍を指揮するザバイカル軍管区司令官カワーレフ大将と、その政治部将校フエデンコ中将を訪れ、大本営参謀総長梅津美治郎大将の特命による軍使として会見、大本営の方針とその方策について詳述した。フエデンコは“委細承知した、その旨は報告する” と約し、朝枝へは“この趣旨を陳情書の形で提出するように ” と命令した。以後数次に渉り会見を重ねたが8月26日発のフエデンコ電文によれば、基本方針である米ソ離間策と大陸残留策を熱心に勧奨したことは明らかである。 (甲第82号証)

8) 8月23日 スターリンは極東およびシベリアでの労働に肉体的に耐え得る日本軍捕虜を約50万人選抜し、ソ連領への移送を全軍に命じている。 (甲第26号証)

9) 8月27日 黒河地区より兵士の移送はじまる。

4、前項は終戦の日以後、スターりンの強制連行開始までの要点を抜いたものであり、ここに至っては「シベリア抑留」は現実の悲劇として始まり、もはや万事は窮したのであるが、その後の記録に残る諸現象も実相の陰として真実を解く鍵であり、慎重に検討されねばなるまい。

1) 関東軍文書として残る「ワシレフスキー元帥への報告」 (甲第25号証) であるが、この文書は関東軍参謀作戦班長草地貞吾大佐の記述によれば、この人を中心に兵站主任山口敏寿中佐、鉄道主任原 善四郎中佐らと相談の上作成し、総参謀長、総司令官の決裁を受け、浄書して8月29日にソ連に提出したものという。  (甲第83号証)        しかし筆跡はまぎれもなく参謀瀬島龍三中佐のものであり、実際に提出されたのは朝枝参謀またソ連側の記録によれば8月26日であるという。 (甲第84号証)(甲第85号証)'

この文書は前述の通り8月21日会談でフエデンコの注文によりその日の会談内容を陳情書の形として書かされ、後日の為の固い証拠となり、1993年にモスクワ公文書館より公開されたものであることは間違いない事実である。“帰還迄の間におきましては極力貴軍の経営に協力する如く御使い願い度いと思います。” の陳情の通り、我々兵士はその文言に寸分違うことなく酷使を余儀なくされたのである。

 大陸残留策を踏まえた文書は民族再起の地域として満州を想定し、ソ連経営下への労役提供を願ったものであろうが、満州はよいがシベリアは嫌だ とは一言も書かず、唯々御使い下されたく とばかりを陳情しているのである。“其の他 例へば撫順等の炭鉱において石炭採掘に当り、若くは満鉄…・等に働かせて戴き、貴軍隊を始め満州全般の為”は遙か中央アジアのアングレン炭坑へ、他の一人は砂漠のカラカンダの炭坑へ飛ぱされ、満鉄で働く筈の人はチタの鉄道機関区で施盤を廻す破目に落ち入り、三年乃至四年の帰還までの間に懇願の通り、膏皿を絞り取られたのである。

我国が関東軍60万を役務賠償としてソ連に引き渡すことになった文書は以後日本国からの陳情であることの動かぬ証拠として抗議の口を封じられ、1956年の日ソ共同宣言締結にもひと言の文句もいえず、今日に至るも外交上の弱味として尾を引いているのである。前述の朝枝文書「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」(甲第25号証)と共にこの文書は「シベリア抑留」の根源を解明する重要文書であり、これに関与した三名の参謀から詳しく事情を聞くことは事実認定の上から欠かせない条件であり、控訴人らは証人存命中の尋問を重ねて要望する。就中、証人三名の内、朝枝繁春証人は昨年物故された由である。

2) 9月1日 モスクワ公文書館より発見された関東軍文書に草地参謀起案の天皇上奏文がある。関東軍総司令官山田乙三大将が作戦並に停戦の状況に関し上奏せんとした文書で、朝枝参謀、瀬島参謀がソ連機の貸与を願い帰国上奏する予定の処、寸前においてシベリアヘ移送され未遂に終ったものである。縷々報告した末 “今後在満鮮五十万ノ軍隊ト在留百三十余万ノ同胞トヲ巧ミニ処理スルハ関東軍ニ残サレタル最後ノ問題トシテ肝胆ヲ砕キアル所ナリ・・・・” と書いている。 (甲第86号証)

巧みに処理するとはまことに策謀的であいまい模糊たる言葉であるが、最も責任重大な部下将兵の安全、早期帰還に関する文字は皆無である。総司令官として、また特命全権大使としての山田乙三は、大本営からは「承詔必謹」に含まれた役務提供とソ連恭順の基本方針、また政府からは大陸残留の足枷と、これら文書を紙背に徹して読むならば苦悩の姿が彷彿と浮びあがるであろう。

3) 9月4日 「ソ連最高司令官ニ対スル希望ノ件」 を関東軍総司令部より出しているが、文中に兵士の運命に一言の言及もないのは不自然であり、第五項に軍を除く とあるのも間題である。(甲第87号証) 実はこれには深い委細があり、前項の上奏文もそうであるが、総司令官は兵士のソ連入りをこの時既に承知し、独り我が胸に収めて苦渋のうちに「承詔必謹」を進めていたのである。

4) 8月25日 新京に進駐したソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥は山田乙三司令官と二人切りで会談している。通訳をつとめたコワレンコによるとワシレフスキーが “捕虜になった関東軍はソ連領内へ移動し、日ソ両国政府間の取り決めを待つことになるでしょう” と云ったに対し “もし私どもがソ連領内へ移動するような場合には、私が預っていた将兵が衣食住に不自由しないようにして頂きたい” と要望したと云う。ソ連の日ソ中立条約とポツダム宣言9項違反の抗議も、国際法にもとる非難も、また将兵の早期帰還、その時期、待遇等について一言も述べを形跡はない。  (甲第27号証)

当然であろう、彼は覚悟の上であった。将兵の役務賠償提供は「承詔必謹」の国家基本方針であり、国体護持の捨石として部下をスター〜ンの人身御供にあげるのは身を切られる思いであれ、君恩に酬いる尽忠の大義とやらを本懐としたのであろう。

5) 9月5日 山田総司令官以下幕僚はハバロフスクヘ抑留され、将兵の大陸残留策は根こそぎシベリアにおいて実現を見ることとなる。

5、戦争中は「米英撃滅」、末期においては「本土決戦」が国を挙げての合言葉であたが、一夜明ければ「承詔必謹」に一変し、特に陸軍上層においては “これが目にはいらぬか” とばかりに声高く叫ばれたが、この新しいスローガンはどのようなものであったか、“戦さを止めよ、敵に降伏せよ” は表向きで、特に関東軍に対しては国家中枢の重くて暗い意図を含み、それが詔勅として実施された結果が悲惨な「シベリア抑留」を生んだのである。

1) 国体護持

近衛文磨の「和平交渉の要綱」の冒頭にいう “国体の護持は絶対にして一歩も譲らざること” の通り絶対で、これ以外は考慮の余地がないこと、例え一億が枕を並べて天皇の馬前に討死しようと、いかなる犠牲も厭わない赤心が時の哲学であった。それは絶対に天皇を戦犯にしてはならないのであり、絞首台上に登らせないことであった。そのような事態あらんか、文武百官のどの辺りまでハラを切らねばならないか、天皇の破滅は身の破減であった。天皇を頂くシステムでトクをしている方々はその仕組を何はさておき守ることが至上の方針であった。

2) スターリンヘの恐怖と恭順

それを脅かす最大の敵はソ連とコミニズムであり、これへの畏怖が一貫した赤軍への恭順と、スターリンヘの命乞いとなった。

3) その最も有効な手段としての役務提供が近衛提案以来の我国中枢の基本方針であり 「シベリア抑留」 はその具体化に他ならない。

4) 大本営参謀部の「大陸残留策」は“あわよくば満州で・・” の逆手を取られて利用され、シベリア戦後復興の経営に協力する如く結果として無償で使われたのである。

5) 「承詔必謹」 とはこれらの要素を含んだ超法規の強行であった。

6) 関東軍首脳は救国の大忠臣である。

国が敵国に兵士を売り渡すという大罪が、その後 半世紀を経た今日まで長年に渉って発覚せず、国はその受難者に謝罪もせず償いもせず、事件を迷宮に入らしめたのは古今東西にその例を見ない完全犯罪である。この恐るべき犯行を見事になし終えたのは山田乙三を長とする関東軍首脳であり、彼らこそ国体護持の大忠臣である。いかに腰抜けと罵倒されようともソ連軍にへりくだり、口では “折ある度に兵士の早期送還を要求した・・・・” というが、そのような基本方針に外れたあとあと都合の悪い記録や証拠は毛ほども残さず、まさに上奏文にいう “今後在満鮮五十万軍隊ヲ巧ミニ処理スルハ関東軍ニ残サレタル最後ノ問題トシテ肝胆ヲ砕キ・・・・” 承詔必謹作戦を敢行し、栄光の軍団関東軍はソ連との戦闘にこそ敗れはしたものの、最後の目に見えない戦略では見事勝利を収め、国家再建の礎として偉大な功績を挙げたのである。

 その功により推進された方々には莫大な軍人恩給が支給され続けているのも当然と云えようが、そのためひどい目にあつた兵士らは手弁当の上何一つ恩賞をも与えられていないのである。

6−1) 法的根拠もない「承詔必謹」の強行によって兵士を敵国に売り渡した大罪は以下に違反する。

 憲法第13条、17条、18条、98条、国家賠償法第1条、民法第709条及び国際人道法、 国際慣習法

6)−2 「シベリア抑留」における国の不信不法行為に対し謝罪を要求する。新聞の報ずる処によれば田中外相は、9月8日に開かれる講和条約署名50周年記念式典において米国の元捕虜らへのお詫びを表明する方針を固めた。とある。既に補償を得ている外国捕虜に謝り、何の補償もしない「シベリア捕虜」にはいまだひと言の謝意もない。国体は曲がりなりにも護持し得たが、その身を挺して護った国体とはかくも非情冷酷な国のことであったのか。

6)−3 謝罪もしないのならせめて「シベリア抑留」の功績を顕彰されたい。森前首相はプーチンと会談のためイルクーツクを訪れたが、シベリアに眠る日本人捕虜たちに一本の線香を捧げることもしなかった。枕木一本に死者一人と云われたバム鉄道の受難地も近いが、彼は一片の関心をも示そうとしなかった。尤も墓標の前に立った処で謝罪も顕彰もしない国の総理として掌の合せようも無いのであろう。

昭和31年ダモイした関東軍報道部長長谷川宇一大佐らに対し今はなき昭和天皇のお言葉があったと聞く “いま帰国した者たちは国の宝である" と。

6)−4 以上控訴人らは、生き延びた体験による事実を次代への遺言のつもりで申し述べた。

裁判官に申し上げる。貴法廷が裁かれるのは歴史であり正義の発見である。そのお気持ちで慎重ご審議されたいが、ここで是非 最高裁初代長官三渕忠彦の言を思い出して頂きたい。 “裁判所は真実に国民の裁判所になりきらねばならぬ。国民各自が、裁判所は国民の裁判所であると信じて、裁判所を信用し、信頼するのでなければ、裁判所の使命の達成は到底望み得ないのであります。”

第2、「シベリア抑留」はソ連への役務賠償ではないというが、それでは一体何であったのか客観的、論理的に示されたいと糺しても未だ回答を得ないが、それなら控訴人らの主張を全面的に認められたものと承知する。

1−1、 それであってこそシベリアの荒野に眠る戦友にはじめて “貴方は祖国再建役務賠償のため尊い命を捧げられた。” と報告ができるのである。何のためだか判らぬままの犬死では魂は永遠には浮ばれまい。

1−2、賠償とは戦争に附随した費用を戦敗国が戦勝国に支払うものであり、その方法は償金、物資、生産手段、領土などの外、労務の提供があり、賠償代りに行われる労務を役務賠償という。これらは過去の講和で明らかであり、今次敗戦の我国は領土の返還、割譲を余儀なくされた他、海外資産の没収、兵士の肩代り労働が賠償先取りとして強行されたのである。

1−3、戦争末期のポツダム宣言受入れを検討するときの外務調書がある。条約局の「クリミヤ宣言とポツダム宣言との比較検討」であるが、その一の三、軍隊の帰還に “帝国に対しては独の場合に於ける如く賠償に代る労働力の提供の意味を以て兵員を敵国内労働の為拉致しさるの意図なきを示すものと解せらる“がある。(甲第89号証)
そうでありたいと多分の願望を込めた解釈であったが、現実はドイツと同様の役務賠償となったのである。

1−4、この度公開された外務調書「在ソ日本人捕虜の処遇とジュネーブ条約との関連、」の四、末文によれば “ソ連捕虜収容所に収容された日本人捕虜の受けた取扱いぶりは、かような基本的条件を無視したまったく恣意的なもので、彪大な数による日本人捕虜は最も有用安価の労働力をソ連五ヶ年計画の遂行に提供しつつ、事実奴隷的地位に置かれて、身は家畜のように酷使され、その結果死亡したものは、いとも冷淡に身ぐるみはぎとられて葬り去られた事情が判明したのである。”とあり、労働力の提供とは役務賠償に他ならず国が返答できない所以の一つである。 (甲第40号証)

1−5、相手国ソ連や世界の見解はどうか、敗戦時の疲弊し切った我国の実状から、取れるものは取れるうちにと、役務賠償を先取りした事実をソ連が否定したことはない。自国の復興と人手不足を補うためなり振り構わず強行した、これ以外の何の理由もないことである。日本捕虜の提供した7億日の労働価値は時価5兆数千億を下らない。同じ浮目をみたドイツはこの労役を役務賠償として、受難の捕虜に手厚い補償処置をしいることは公知の事実である。

1−6、国は “実際上ソ連が利益を得たという事実があったとしても、法的に我国はこれを賠償の一形態として認めたことがない” といい、原審はそれを受けて事実を法律に照らして裁こうとしなかったのは著しい判断の誤りと云うべきである。またこの法的に不明瞭で中途半端な状態の原因は、偏に当該両国の信義なき不作為に依るもので、ソ連は国際法違反と強欲な役務賠償取立の強行が世界的批判を喚起することを恐れ、一方我国は棄兵という有史以来の恥部の発覚を恐れ、またその補償のカネを惜しむあまり臭いものには蓋 の喩えの通り、両者尽くすべき法的義務を放棄した結果に過ぎないことである。この明らかな法的不作為の審議を怠った原審の判決は、当然破棄を免れないものというべきである。

2、以上により被控訴人国は「シベリア抑留」は役務賠償なりと認め、控訴人らに補償の義務を果すべきである。賠償の主体は国であり、不運にもその場に居合せた兵士のみの負担によって解消すべきものではない。戦争の被害についてシベリア捕虜のみが特別に補償を受けることがないのと同様に、賠償もまたシベリア捕虜だけで負担すべきものではない。

第3、 1、控訴人らは日ソ共同宣言6条二文の日ソ両国が相互に放棄した請求権は条文通りすべてであり、シベリア捕虜の有する請求権もそのとき放棄されたものと強く主張する

1) 首題の条文解釈をめぐり国は国会において、あるときには放棄したといい、またあるときは放棄していないと全く正反対の答弁を示すので、どうして二枚の舌を使い分けるのかを原告第7準備書面18ペ一ジ以下で、また法廷における二重基準について控訴人準傭書面 3の12ぺージ以下で糺したのであるが、今に至るも回答がない。

2) 被控訴人国は被告第四準備書面三において “我が国が放棄した請求権は、我が国自身の有していた請求権及び外交保護権であり、日本国民が個人として有する請求権を放棄したものではない。” として日本国民のいかなる請求権をも放棄していないという。しかしこれは小渕答弁書 (甲第47号証) と全く同様の趣旨の繰り返しで、我々はそれらも含んでどちらが正しいのかの二重基準を糺しているのであり、これでは回答になっていないのである。二枚の舌の一方を間違っていましたと訂正し、了承を求めてこそ誠意ある回答といえようが、これでは焦点を故意に外した逃げ口上と云わざるをえない。

3) 国は請求権というがそもそも「シベリア抑留」は単なる請求権ではない。われわれ嘗めさせられた強制労働は国も認める通りポツダム宣言に違反して強行され、ジュネーブ条約にももとる違法行為、つまり戦時賠償請求の対象となる事件であって、単に請求権の枠内にとどまらない立派な賠償請求を構成する要件事実である。

このことは外務調書「引揚問題の経過と見通し」において “国際法的に捕獲国が敗戦国の俘虜又は残留者を使用する権利は認められていないのであって、之等に対する賠償支払要求は来るべき講和会議の一重要項目となるであろう“ と述べている。(原告第6準備書面14ぺ一ジ参照)

それであるのに何故共同宣言の場で強調し賠償を求めなかったのか、相手に一札取られているからである。例の “帰還迄の間につきましては極力貴軍の経営に協力する如く御使い願い度いと思います" の一文が致命的障害となっている。アメリカ潜水艦に戦争中不法にも撃沈された阿波丸事件では敗戦国でありながら堂々と賠償権を主張し、和平のため不本意ながら取下げざるを得なかったが、我国は自国受難者に補償を行って解決した。国体護持の代償は大きいのであり、国の責任も重大である。

4) 条約には相手があること故、ロシア側の見解も確かめられたい。シベリア捕虜の請求権が未だロシアに残る との日本政府の見解に、同意を示したロシア人があるとは寡聞にして聞かないが、もしあるならば証拠をあげて示されたい。いかなる弁論を弄しようと実質放棄していることに毫も変りはないのである。

5) 国側のかかる弁論が通用するのであれば、世界のあらゆる講和条約とその履行は混乱を生ずるであろうし、我国は巨大な国益を失する破目に立ち到ることは必至である。世界の普遍的良識は控訴人準備書面3、第四の通りであり論ずるまでもないことである。

6) 2001年4月3日第151回参議院外交防衛委員会における桜井充議員の質問に対する外務犬臣河野洋平の答弁議事録抄を提出する。 (甲第88号証) これによれば随所ですべて放棄を明快に答えている。

7) 新聞の報ずる処によれば9月8日サンフランシスコでの日米外相会談でパウェル国務長官は “戦後処理は平和条約の請求権相互放棄で一切解決済の立場を維持する” と表明し、田中外相も “そういう立場を感謝する” と述べ、この問題をめぐる両政麻の認識の一致を再確認した。 (甲第90号証)

2、

1) 以上の通り捕虜の有する請求権を放棄した責任上、国はソ連に代って補償の義務を負うのは当然であり、憲法第29条3文に示す “私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる” に相当する。

2) 昭和31年11月30日、参議院外務農林水産委員会において、千田正委員から

“もし請求権を放棄したものだとすれば、国内的に何とか補償しなければならないのは当然であります。総理大臣のご所信を" と問われ、総理大臣鳩山一郎は “国内問題として考慮したい” と締めくくっている。(甲第42号証)

3) 国が放棄した捕虜の請求権は次の二つである。

* 抑留中の労働により得たる賃金の未払分と其の他の貸方勘定

* ソ連の侵した非人道的不法行為の責任に基く人道上の補償

3、以上に基き被控訴人国は控訴人らが求める補償を、誠意を以て行う義務を有することは明白である。

第4、前項末に続き国が補償義務を免れないソ連の非人道的不法行為について

1、  このことについては控訴人準傭書面1 に主張したが、これについても国は反論を示さない。仕方がないから当方の主観に基づく主張を更に強調したい。

1) 実定法に基づく給養費や労働賃金は元来国が支払って当然のもので、本来ならばとうの昔に深甚なる謝意をこめて実施されていなければならない性質のものである。それを半世紀に渉り支払わず、しびれを切らした兵士らが国会や裁判に訴えて請求したが、国は支払の義務なし と開き直り、そのまま今日に至っているのが現状である。当事者からすれば最低限の権利をかくも露骨に請求までして手にした処で、正直少しも嬉しくはない。これだけ話がこじれ、虚仮にされて今更有難いとは申しあげられないのが本心である。

2) 裁判官や被控訴人国の代理人の方々はお若いから充分ご存知ないのではと思うことの一つに、日本に捕虜になった連合軍の兵士は既に日本政府から「シベリア捕虜」と違ってなにがしかは支給されていて、法的には一件落着をみているのである。講和条約締結に当り、支払原資のない我国は海外資産を提供して国際赤十字社に委託し、少ないながらも全員に支払った。それを不服として請求した連中は例の “すべてを相互放棄で結着済" の呪文に退けられ、それを母国が見兼ねて救済したが、その名分は労賃に代わる補償ではなく、非人道的行為受難に対する補償である。ドイツの場合の名分は労働量ではなく剥奪された自由と人権の時間の長さに対しての補償であり、我国の如く僅かな賃金を争う次元の低い裁判を未だにせざるを得ない捕虜は一人としていないのである。

3) これらを考察するに給養費や労働賃金を双方の当該国が支給の義務を有し、捕虜がそれらを受取ることは当り前のことであっても、そのことよりも今日の国際的課題は非人道的行為による被害の糾弾と救済が主流であり、この取組をあらゆるレベルで推進しているのが現状である。

4) 「シベリア抑留」が非人道的行為にあたる事件であるか否かを問われるならば、外務調書「在ソ日本人捕虜の処遇とジュネーブ条約との関連」を読まれれば充分以上に認識されるであろう。(甲第40号証) そのむすびにいわく “ソ連の管理下に入ったすべての日本人が当初動物以下の取り扱いを受け、しかも冷酷、無慈悲に酷使され、その結果として厖大な死亡者を出したことは明白である。何人もこれを否定し陰蔽することは出来ない。” と。

5) 「シベリア抑留」は国会や司法の場において長い間論争を重ねたが、未だに国民的合意を得られず暗礁に乗り上げているが、行きがかりから双方引くに引けない経緯もあろうが、今日弁証法的に見るならば、正、反はここに来て止揚され、新しい次元にあることに気が付かれるであろう。即ち人道法に基づく対応への道である。

6) 捕虜の人道的取扱に関する国際法上の原則は次第に拡充されつつあるのみならず、国連憲章、集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約、ならびに人権に関する世界宣言を通じ、基本的人権、人の生命及び価値に対する尊重の原則は、国内法及び国際法の領域において偉大な普遍的原則として漸次確定されつつある とは同上外務調書 (甲第40号証) の記述である。

その趣旨に基づき、我々控訴人らは一切の主張を含めて首題の通りソ連の侵した非人道的不法行為の責任に基づく人道上の補償を要望する。手垢に汚れた次元の低い論争よりも双方共にこの方がよほど気持の良い解決となるであろう。

第5、1949年ジュネーブ条約の条文解釈について鑑定を申し出たい。

本事案の争点の一つとして国際人道法並に国際慣習法の解釈について彼我に著しい違いがあるので、以下につき学識経験者の精緻な鑑定を求め度い。

1、同条約め遡及効について

1) 控訴人らは1949ジュネーブ条約が批准公布された時点では、既にソ連より復員し捕虜の身分を喪失しており、同条約は適用されないとされている。しかし同条約134条、135条、141条等によって効力は開戦時に遡及しており、従って控訴人らは同条66条の定める処によって、所属国たる我国から未払労働賃金の支払を受ける権利を有すること、またそれを保証する国際慣習法も当時確立していたことは明白だと信じている。 

2) これらを主張した「シベリア強制労働補償請求事件」は平成9年3月13日の最高裁判決により、同条約は遡及せず、また国際慣習法の存在も認められず として棄却されるに至った。

3) しかしながら平成12年12月19日に公開された外交文書により、同条約は遡及するしないではなく既に遡及して、あらゆる外交活動に取り入れられている事実が判明し、控訴人らはそれを証拠として提出して慎重審理を求めている処である。

(甲第65号証、甲第66号証、甲第67号証、甲第、76号証)

4) 前項の最高裁判決を被控訴人国は法的根拠として鉄壁の如く依拠し、“「シベリア抑留」は国に補償の義務なし” と拡大した主張を高飛車に引用した。しかしこの判決は当時これらの事実を証拠と共に秘匿し、また司法も国際法の理解を誤った結果生じたものであり、控訴人らは毫もこの拘東を受けるものではない。

2、同条約第6条の解釈について

“捕虜の地位に不利な影響を及ぼし、又はこの条約で捕虜の権利を制限するものであってはならない“ を侵害して「日ソ共同宣言」は無効であると訴えているのに対し原審は何ら説示することなく審理を尽くすことなく棄却したが、この条文解釈の当否について鑑定を求めたい。

3、其の他関連事項について

4、鑑定人については目下依頼中、採用許可あれば鑑定申出書を提出する。

結び

裁判所の諸官に申し上げる。

 控訴人ら大正生れは今の人と異り口が重く、云いたいことの半分は控えよの教育を受けたため充分に意を尽くせないが、戦前戦中からのめしの数の多い者の言い分も立てられ、人間味溢れる審理を尽くして人権尊重の理念に立ったご判断を願うものである。
<その7>のページへ


<目次>へ戻る