第2章
  1、大阪高裁第82法廷

  <その5> 道理を忘れた原審判決              2001.8.17

控訴人準備書面 3                    2001.8.17.

 近時国を相手の裁判で胸のすくような判決が相次き、国民の多くは共感して司法の健在に拍手を送ったが、これは法律の有りやなしやの難しい解釈はさておいて、当たり前のことが当たり前に裁かれ''道理が通らにゃこの世は闇よ'' の唄の文句の通り、人の道が見事に貫かれたからではなかろうか。世の中すべてかくあるべき中で「シベリア抑留」問題での国の考え方は道理に合わぬことばかり、その対応も著しく公平を欠き、不条理極まるものであり、控訴人らはいかにも納得がゆき兼ねるのである。どのような高邁な法律であれその根底に道理が通わなくて、どうして人が心服するであろうか。

今回はそれら不条理の数々を列挙したので、被控訴人国に云い分があるならば返答されたい。

控訴人らは「シベリア抑留」という末曽有の悲劇を体験した者であり、事案の真相解明を裁判所に訴え出た以上後日歴史の審判に耐え得る充分な主張と立証をつくす重大な責任を負う立場にある。新しい世紀を迎えた今日、戦争処理に対する世界の関心は国際視野に立った人道思考が中心となり、戦争犯罪の究明は時効の壁をも排除して徹底され、その救済にあたっては戦争一般被害論という抽象や、隠れみのははぎとられて人間性に基く癒しと償いがとうとうとした流れとなり、母国をはじめ当該国がそれぞれ責任をもって対処していることは公知の事実である。

これら世界の中にあって我国の現状はどうであろうか、依然として前世紀の人道後進国そのままであり、自国受難者の問いにすら満足に答えようとしないのである。「シベリア抑留」の後始末を放置したままで現実から逃亡しようとしても歴史は永遠にこの非道を許さないであろう。またこれらの反省を忌避したままの不条理により、再び戦争の惨禍がおこることのないようここに公正な判決を求めるものである。

第1、給養費の支払義務について

(控訴人準備書面1の第二の一の9 (7ぺ一ジより) 補足)

 旧日本軍隊は国民に家族や職業また個人の自由を放棄させ、命は鴻毛よりも軽しと戦場に狩り出す組織であったが、その代り任務が終って解放するまで兵士の給養は官費無償であり、不運にして捕虜になることがあったとしても否定されることはない。これらは「大東亜戦争陸軍給与令」 (昭和18.7.28勅令第625号)またその「細則」 (昭和18.8.20陸達67号) 及び敗戦後の変化に伴い「政令第52号」 (昭和22.5.17) また「未復員者給与法」 (昭和22.12.15法律第182号) において修正を見たが、いづれもなお従前の例によるとして受給権を実定的に保障しているのである。つまり軍役は暗くて辛い務めではあるがめしだけは喰え、日用の身の廻りの品々も自分で負担することはないと云う、これは平凡なことだが至極当り前の話である。

ところが敗戦後半世紀を経た今日に至るまで国は抑留中の給養費の支払いを渋り同じ日本軍の「南方捕虜」には全額支払っているのに「シベリア捕虜」には何故か1円も支払わないのである。この不公平を訴えたのが世に云う全抑協の「シベリア裁判」で、国の支払義務の有無は争点の一つとして激しい論争が行われたのである。使用者である軍が兵士のめし代を払うのは誰しも当り前のことと思うであろうが、当り前のことが当り前にならないのがシベリア裁判で、奇怪なことに結果的には国の云い分が通り、捕虜にめし代など払う必要はなしと決った。この無理が通って道理が引っ込んだ経緯はもう一度光を当てる必要がある。

1−(1) 国の反論は4点であり、その1は次の通りである。(昭56.(ワ)第4024第7準備書面P90以下)

21.5.15付け「1復第907号通知別冊 『外地帰還者給与処理要領』 Cの3の(注)1」 には 「俘虜となったと云う事実を不問にして一般の外地帰還者と同様に取り扱う」 との規定が置かれているが、これは捕虜には大東亜戦争陸軍給与令の適用がなかったことが前提とされていたと解される。

1−(2) 原告の再反論は次の通りである。(同第16準備書面V4の2.) Cの3の (注)1は戦死者として一旦は処理済の者が生還してきた場合の取り扱いを述べたものであり、その際には捕虜の心情を忖度し、自然のうちに他の外地帰還者と同じように帰郷させるように、捕虜となったことは不問にして取り扱うよう指示したものに過ぎず、毫も大東亜戦争陸軍給与令からの除外を意味するものではない。しかもCの3の (注) には正確には「終戦前捕虜になった者に対する給与」となっており、被告の引用は正直ではない。

1−(3) 以上の応酬のどちらが正しいかはさておいて、控訴人はここに国の不信行為を強く糾弾したい。国は、“君たち捕虜には給養費の適用はないのだよ、捕虜にめしを喰わせる気はありません。”とはっきり宣言しているのである。ここにおいて捕虜の生存権を否定し兵を棄てたのである。国はこの時気でも狂ったのではあるまいか、思い返して頂きたい、敗戦のとき大陸令第1385号において'“詔書煥発以後敵軍ノ勢力下ニ入リタル帝国陸軍軍人軍属ヲ俘虜ト認メス” としたのは誰であったか“ 銃を捨てて敵の勢力下に入れ、命令に従わない者は厳罰に処す” と命じたのを忘れておられるのか。

1−(4) その舌の根の乾かぬうちに“捕虜にめしを喰わせる必要はない” と主張しておられるが、それではお尋ねしたいことがある。“従わない者は厳罰に処す” との詔勅をまともに奉じた捕虜はこのように非情にも国から棄てられ、従わずに脱走して早々と内地へ帰った利口者はトクをしたが、この者共はいつ厳罰に処せられるのか国に伺い、この際はっきり示しをつけて貰いたいが、以上について明確な釈明を求める。

1−(5) 捕虜に給養費は支給せず と法令のどこに明文されているのか回答されたい。どこにも書かれていない法文を捻じ曲げ、一部分を故意に削除して曲解を強用するのは犯罪的であり、受給権抹消を企図した行為である。

1−(6) 敵に降伏してくれと命じた兵士らが、お国のためとは云いながら草の根を掘り蛇や蛙を追って飢餓に苦しむのを知れば、使用主としてああ何とかしてやりたい、出来ことなら米の百俵でも送りたいといってくれるのが人情であろう。それを捕虜に喰わせる義務はないとは、“お前たち死んでしまえ” と云う事であり、とても人間の口から出る言葉とは思えない。

1−(7) 日露戦争のときはどうであったか。同じ日本国の同じ日本人で同じ憲法のもと、40年前の日本人捕虜は母国からどのような扱いを受けていたかを申し述べる。我国の捕虜に対する人道的扱いは控訴理由書その一、P22以下で述べているので多言は弄しないが、給与の面を補足すると、ロシア抑留中の給養費一切は当然我国が負担している (戦後日露両国相殺) 。当時は労働を強制されることもなく、捕虜は全くの客人扱いであったが、国は更に勅裁を仰いで救恤活動として、次のような階級区分に応じた手当金を支給している。(米国外交官筋経由) 佐官200円、尉官100円、準士官50円、下士官30円、兵卒20円、以外の者10円、(準士官以上は国際法によりロシア側から俸給を支給していたから二重の給付となった。また当時の野戦兵卒の月給が1円20銭であったから相当の高額である。) なお、民間の義捐金が1人当り11円98銭、これも米国大使を経て送金され各人に支給された。その他種々の配慮あり全く夢のような話である。

1-(8) 翻って我々「シベリア捕虜」に国は何を酬いたであろうか、詳しくは原告第5準備書面P1以下に述べた通り 何一つしていないのである。もし何かして呉れたことがあれば教えて頂きたい。またどうしてこの天と地の如き現象が生じたものか説明を求めると共に、これら人でなしの非情の数々を反省し陳謝されたい。

2−1 国の第2の反論は次の通りである。

 仮りに、捕虜に対しても大東亜戦争陸軍給与令の適用があったとしても、俸給以外の給養に関する規定は原告らには適用がない。すなわち同令25条、及び28条には、営内居住者等が対象であって、原告ら抑留者はこれに該当しない。

2−2 一歩を退かれて仮りに といっているが、内心第1の論法に自信が持てないようで、同令25条とは被服の、28条とは糧食の支給規定であるが、この受給資格はいづれも営内居住者に限るのであって、ラーゲリは営内ではないからダメだと云う。まさに法匪的解釈の見本であり、よくも申されしものかな と憫笑を禁じえない。両者共自由はなく異性は住まず衣食住とも快適を欠く点は全く同じだが、まだマシな営内居住者でありたいものを、厳罰に処すと云ってラ一ゲリヘ追いやったのはいったい誰であったか。また給養費も全額呉れたアメリカ捕虜の収容所が営内で、給養費を呉れないソ連捕虜の収容所が営内でない理由を判り易く説明して貰いたい。

3−1 国の第3の反論は、

 また同令44条、45条及び47条の規定については、戦地にある軍人に適用されるが、ここに云う戦地とは大東亜戦争陸軍給与令細則第2条に定められているところであって、原告らが抑留されていたシベリアがこれに該当しないことは明らかである。

3−2 同令44,45,47とは戦地にある軍人への被服、糧食、日用品の支給規定であり、細則第2条とは次の通りである。

令第二条第三号ノ戦地トハ左ノ各号ノ地域ヲ謂フ

.支那(香港及澳門ヲ含ム)

.泰及佛領印度支那

.敵国及中立国ノ領土又ハ租借地タリシ地ニシテ陸軍部隊ノ作戦行動スル地域

.南鳥島、新南群島及南洋群島

.前各号以外ノ地ニシテ特二指定スル地域

この表にシベリアは書いてないと云うのである。このような論客を相手に選んだのは一生の不運で、我々はこのような論法を三百、もしくは三百代言の屈理屈と云う。シベリアとは、ソ連とはどのような相手であり、一体何者であるのか、あべこべに伺いたい。昭和20年8月9日、日ソ開戦によってソ連は敵となり、大本営は「ソ連邦ノ非望破擢ノタメ全面作戦」を命令、シベリアは我軍の行動地域となっている。

もっとも8月15日のポツダム宣言受諾によって法律上、敵国の意義は消減し、敵国を外国、敵地を外地と読み変えることになったから、シベリアと他の旧敵国を区別する理由ばなくなった。

4−1 国の第4の反論は、

 同令49条については、外地にある部隊に属していることが要件となっており、部隊から離れている捕虜には適用がないと云う。

4−2 同令49条とは防寒用薪炭の支給規定であるが、我々シベリア捕虜は部隊から離れたのではなく、部隊ごと捕虜になったのであり、そのように命じたのは外ならぬ国である。8月15日以前に捕虜になり、アメリカ本土に収容された兵士がまさに国がいう部隊から離れた捕虜そのものであり、その方々は給養費を貰っておられ、そうでないシベリア捕虜に支給がない理由を説明されたい。話がここまでくるともう支離減裂で論をなさず、残るは虚しさばかりである。どこまで「シベリア捕虜」が僧いのか、カネが惜しいのか、我々が求めているのは道理が通った誰でも納得のゆく答弁なのである。

5、いずれにせよ司法は「シベリア捕虜」の訴えを退け、国に給養費の支給義務なしの判断を示した。我々がいう道理は道理ではないのだろうか。せめて次の道理だけでも通して貰いたい。捕虜に給養費の適用を認めないのであれば、既に支給済の「南方捕虜」に返還を命ぜられたい。同じ日本兵捕虜でありながら一方に支払い一方に支払わないのは道理に合わないことであり、国際法のからむ未払労賃支払の不公平はともかく、国内法で処理されるこの件はこのままでは明らかに憲法14条、法の下の平等に違反している。

6、“法は正しくあれ、正しいとは道徳的な規範である。法の規定がない場合は、それを支配するのは道徳である。” これは近世法学の泰斗グロテウスの箴言である。言わずもがなのことであるが、裁判官はここで大先輩の心を銘記されたい。いかなる判決でもこの言葉の意義を失うとき、国民はまた歴史は決して承服しないであろう。裁判は道理に帰納されるべきであり、いかに輻湊した難問題であれ、この羅針を持して忠誠なる兵士にめしも喰わせないという不条理の誤りを正して下さらんことを切望する。

第2、「シベリア抑留」はソ連に対する労役賠償であったのか否かについて

このことについて原審は認めるに足りる証拠はないから原告の主張は採用できないというが、この判決も紛争となっている事実を解明しようとせず、政権に迎合した法解釈を是とする甚だしく道理に外れたものであるので承服できない。

1、“実際上、ソ連がこのような強制労働により利益を得たという事実があったと致しましても、法的に申し上げれば、わが国としてはこれを賠償の一形態として認めたものではないわけでございます。''

これは昭和53年2月27日衆議院予算委員会での大森政府委員の答弁であるが、“事実は、そのようだが法的に認めたわけではない” と云っている。控訴人らはさまざまな例証をあげ、この発言にみられる実際上の事実を列挙し、ありのままの現実を認められるよう主張した。しかしながら原審は司法のチェック機能を放棄して国側に立ち、事実を無視した法解釈を展開して主客転倒の判決を下したのである。 

“実際上、軍曹がこのような暴力により欲望をとげたという事実があったと致しましても、法的に申し上げればこれを婦女暴行の一形態として認めたものではないわけでございます。”

茶谷基地で発生した不祥事でこのような言葉を聞けば、沖縄の人々はどのように思うであろうか。

2、一枚のジグソーパズルを思い浮かべて頂きたい。一枚の絵の中に一ヶ所小さな空間があり、この穴へ「労務賠償」という断片をはめ込めばピッタリで、左右前後にきれいに繋がってパズルは完成する。小さくてもこのピースがなければ「シベリア抑留」と云う未曽有の惨劇は説明がつかないのである。そうでないならどのような形のピースがあるのか「労務賠償」でないと云うなら、それは一体何であるのかを度々聞いているに拘らず、今に至るも国側の返答はない。これは「国体護持」と共に本事案解明の根源をなす焦点で、これを追求するために裁判をやっているのであって、控訴人らは政治問題を論じているのではない。このなぜをつきとめ、国の責任を明らかにして蒙った損害の謝罪と償いを要求しているのである。この審理を尽くさずして何が裁判か、原審は認めるに足りる証拠はないと云う。原審において控訴人らは書証等を提出し、且つ重要証人の取調べを申し出ている。しかし証人尋問の採用もなく、生き証人らは老齢のため重要証拠はいま消滅しつつある。原審は自由心証主義の採証原則を誤り、科学的合理的自由心証主義を放棄し事実誤認に陥ったものである。

3、法的に賠償と認めたものではないと云うが、国は認めるのが嫌で逃げ廻っているだけである。本来ならば相手ときっちり法的な取り決めをすべきが任務であるのに、カネが惜しさにサボタージュをしているだけで、それがため被害を蒙った「シベリア捕虜」に第二の災害を及ぼしているのである。賠償ではないと云っているのはご当人だけで、世界はどのように見ているか、先ずは相手のロシアに聞いてみるがよい。裁判官は被控訴人国に対して正式に相手国ロシアの見解を聞くよう釈明を求めるべきで、これが問題解決の早道である。本事案にはこのようなサギをカラスと云いくるめるような道理に外れたことが多過ぎる。国は労務賠償の事実を認め被害を蒙った者に相応の補償を講ずるべきである。

第3、未払労賃について

戦争から半世紀を経た今日、世界各国の捕虜はどこの国でも労働賃金またはそれに代る補償金を手にしているのに、独り我国の「シベリア捕虜」のみ未だ支払を受けられないとは誰がみても不公平で道理に外れたことであり、どのような経緯があるにせよ直ちに是正されねばならない。ものごとは先ず最も肝心な根本を考えるべきであり、枝葉や小括孤にこだわっていては真実を見誤ることが多い。国際人道法の精神から「捕虜の労賃は支払わるべし」は大原則であり、強行規範として世界が忠実に履行している処である。

1、「捕虜の労賃は支払わるべし」 1907年ハーグ陸戦法規条約以来の国際法制上で形成された「法の一般原則」ないし「慣習法」として基盤的に成立しているこの大原則には、さすがの国でも否はない筈である。“その通りである” と完結すれば一件落着で間題はないのであるが、国は必らず “しかしながら・・・” と続け、これを繰り返して話が枝葉へゆくにつれ、白は次第に黒に変り、結局はびた一文払おうとしないのである。“支払わるべし” の大原則をどんな理由があれ“支払う義務なし” と強弁するのは世界広しといえども我国だけであり、歴然たる国際人道法の違反である。それなれば明らかに49ジュネーヴ条約第6条に抵触するので、1956年締結の日ソ共同宣言は無効であり、未払労賃問題は一から日ロ両国でやり直すべきである。

2、「俘虜ノ労銀ハ、其ノ難苦ヲ軽減スルノ用ニ供シ、剰余ハ解放ノ時給養ノ費

用ヲ控除シテ之ヲ俘虜ニ交付スヘシ」 (へ一グ陸戦法規第6条5項)

「労働ニ使用セラルル俘虜ハ交戦者間ニ協定セラルヘキ労銀ヲ受ケル権利アルヘシ、俘虜ノ貸方ニ残ル金額ハ拘束ノ終了ニ際シ、俘虜ニ交付セラルヘシ」 (1929ジュネーブ条約第34条)

以上の通り未払労働賃金の決済は実定法規に基づくものであり、国が “これらの支払は国際法の義務ではなく国内法での任意裁量である” というのは明らかな誤りである。この方式により「南方捕虜」は所属国である日本より未払労賃の全額を支給されたが、「シベリア捕虜」には労働証明書を持たないことを理由に今に至るも支給しようとしない。同じ日本軍の捕虜でありながら一方に支払い一方に支払わないとは甚だしく道理に外れたことで、法の下の平等をうたった憲法第14条違反である。これを50数年放置した立法府の不作為もまた許されるべきではない。

3、「シベリア捕虜」が労働証明書を所持しなかったため、国はわざわざGHQに対して証明書の発行を要請し、その証明書を持ち帰った場合にはソ連に代って支払を実行することを提案している。(甲第41号証) これにより当時の国家意志として憲法第14条の利益均霑上の平等待遇を考慮していたことは明瞭である。しかるにソ連が実行しなかったのを奇貨としてその後久しきにわたって放置し、ようやく民間努力により一部元捕虜が入手したときには、公式文書ではないとして取り上げなかった。本来なれば鋭意国が努力を尽して国の費用で実現するべき仕事を、民間がやったものは認められないと、このような因業な言葉は真っ当な人間の口にすべきものではない。ドイツ政府においては同じ「シベリア抑留」関係の資料を旧ソ連から買い取り、抑留者補償の公正を期したことを我国はどのように思うか、胸に手を当ててじっくり考えて貰いたい。

裁判官よ、法治国日本の現実の姿をよくご覧頂きたい。我国は古来小国たりとも高潔、廉直の国風を有し、我々日本人は貧しくとも恥を知り、名を惜しみ、このような道理に外れた振舞は家門の名折れとした筈である。これまたはっきりするため被控訴人国に釈明を求め、相手国ロシア政府に対し公文書か私文書か、また国としての意志であるのか否か、未払労働賃金支払の責任に対する見解等を聞きただすよう催告されたい。真摯に「シベリア抑留」を裁こうとなさるなら、これら釈明権の行使と職権探知を尽くされるべきである。

4、労働賃金支払の責任は抑留国のソ連か所属国の日本か、いずれにせよこの二国の外にはない。労働賃金は宙に消えたわけではなく、現在も未払のまま残っているが、我国は当方の責任ではないと詭弁を弄して逃げの一手だが、逃げ廻って済む話ではない。自分の責任でないならどうして相手に厳しく催促をしないのか、被害を蒙った兵士の使用主として当然の義務であるのに、ひと言もロシアに文句を云わないのである。

 難しい理屈はともかく、労賃の支払義務は抑留国であるソ連であり、未払労賃の決済義務は所属国日本であることは国際法で明示され、世界のどの国もその通り実行していることであり、“捕虜の労賃は支払わるべし” は枝葉はともかく、大もとでは揺るぎのない原則である。国際法であるからには不審あればその筋の 例えば国連であれ国際赤十字社に見解を聞くべきである。国際赤十字のジリ・トーマン博士は誰の責任であるかを鑑定書の中で明快に述べている。

 1949年ジュネーブ条約の第66条の (捕虜が属する国は、捕虜たる身分が終了した時に抑留国から捕虜に支払うべき貸方残高を、当該捕虜に対して決済する責任を負う。) 規定は創設的条項ではなく、へ一グ法規、1929,1949年の捕虜条約が採択された当時に既に存在していた法則の条項である。現行第66条は現行法規を正確に確認したものにすぎない” と。更に彼は断言している。“この特定の問題に関して裁判の余地はないようである。”

この原則に基づき、大戦中我国に抑留されていた捕虜の未払労賃に代る補償金を、イギリス、オランダの政府が自国捕虜に支給を約したニュースは耳新しい処であるが、それを我国政府も立法府も ほおかむりをきめ込み、原審もまた彼らの従者の如く不正を追認して共犯者になりさがったのである。いかがであろう、これらの発言が根も葉もないことであり、神聖たるべき場を汚したというのであれば罰せられよ。

5、道理に外れたことをもう一つ

労働賃金を払わなかったのは証明書がないからというが、我が国は上記イギリス兵や敵国捕虜に発行して持ち帰したであろうか。そんな話は聞いたことがないが、これらの国々は紙切れ一枚が無くとも、それぞれ自国で労苦に相当するものを補償しているではないか。自分が持ち帰らさず「シベリア捕虜」が所持しないを理由に放置するとは何とも道理の通らぬことである。また国は片一方に支払い、片一方に支払わないのも不公平とまでは云えないと、証明書不所持を理由に憲法第14条違反の訴えを退けたが、そもそもこの紙切れ一枚が事務上はともかく、それほど重要な意味を持つものであろうか。これらがあるから労働があり、無いから労働が無かったと、それではシベリアでの強制労働は幻であり作りごとであるとでも云うのであろうか。我々は物見遊山や観光旅行でシベリアヘ行ったのではない。証明書がなくとも世界の国々はすべて国際人道法の義務を果たしているのである。一々頭を下げて再度ロシアから頂く必要はさらさらあるまい。義務を果す気さえあればいつでも即刻出来る筈である。南方捕虜で所持しなかった兵士に対して実施した方法を思い出されれば、いとも簡単なことである。

第4、国は捕虜の持つ権利を放棄したのかしないのか

1、新聞の報ずる処によれば、アメリカの各州においてさきの大戦で日本に抑留され、強制労働の憂き目をみたアメリカ兵捕虜が、日本政府と企業を相手どって謝罪と補償を求める裁判を起こしているとのことである。その訴訟は既に30件を越え、約半数が連邦裁で棄却されたが、その理由は “サンフランシスコ講和条約の当事国は国と国民に対する補償請求権をすべて相互に放棄しており、この問題は完全かつ最終的に結着済である。” という被告日本側の主張が認められた結果であるという。また日本国内における従軍慰安婦やイギリス捕虜、其の他戦後補償をめぐる訴えについても、我国の行政と司法は一貫してこれらを退けているが、その理由も同様同趣旨の主張を金科玉条の楯としているからである。これら訴え人の母国は判決に応じてそれぞれ自国被害者の救済に務めていることは周知の事実である。(甲第77号証) (甲第78号証)

2、彼我の立場を代えて「シベリア抑留」の場合はどうか、

1956年締結の「日ソ共同宣言」第6条2項は“日本国及びソビエト社会主義共和国連邦は、1945年8月9日以来の戦争の結果として生じたそれぞれの国、その団体、および国民のそれぞれ他方の国、その団体および国民に対するすべての請求権を相互に放棄する。”としているが、捕虜の所属国たる我国は“日本国民が個人として有する請求権を放棄したものではない。”として放棄した責任によって生ずる補償義務を拒否し続けている。

3、放棄されたものであるなら憲法第29条の“財産権は、これを侵してはならない。”を侵害し、“私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる” に相当する。

4、国に無断で放棄された「シベリア捕虜」の請求権とは次の二つである。

* 抑留中の労働によって得たる賃金の未払分と其の他貸方勘定

* ソ連の侵した非人道的不法行為の責任に基く人道上の補償

5、あるときには相互に放棄したのであるから支払義務はないといい、あるときには放棄した覚えはないから知らぬ との二枚舌は、原告第7準備書面 (18ペ一ジ前後)で述べた通り議会においてしばしば論議を呼び、ときにより全く矛盾した答弁がながながと繰り返されて質疑は平行線、一向にラチがあかないのは司法の如く厳正なる審判官が居ないからである。放棄したのかしないのか、また全く相反する二重基準の国是がどうして公然と行われているのか、これらは捕虜の権利を左右する問題であり、控訴人らは当初より国に回答を求め続けているのである。

6、殆ど回答のない国がその第四準備書面において珍らしく反論を示したが、それは小渕答弁書 (甲第47号証) と同様の内容で、質問の焦点を故意に外したものであった。控訴人らは、被控訴人国の他国人から請求されれば放棄されているといい、自国民には放棄した覚えはないという、道理に外れたインチキ性を糺しているのである。

7、以上は一例にすぎないが、ことほど左様に被告人国は殆ど回答せず、たまにあれば勘所を外した巧みな逃げの論法に終始する。日ソ共同宣言無効を巡る論争においても自らの義務不履行を棚にあげ、原告らに請求の権利がなく前提を欠くなど的外れの主張はその典型というべきである。(原告第11準備書面)

8、「シベリア抑留」は昭和史のブラックホールであり、この巨大な歴史の空洞は何一つ解明されることなく闇へ押し流されようとしているとき、生き残りの老兵が真実を探し求めて必死に訴えているのであり、受難した者約65万が彼岸からも此岸からも本法廷を凝視しているのである。これはまたとない得がたい機会なのである。どうか昔の使用主である国はかつての忠勇なる兵士に胸襟をひらいて見解を語って貰いたい。そして “あぁ、なるほど、そうゆうわけでありましたか” と心から納得がゆけばそれでよいのである。満足して今生を終り、先にいった友へも国の真意を伝えてやりたい。それがためには兵士の声にお答え下さらねば解決はないのである。

9、裁判官は被控訴人国に対し回答を急ぐよう警告されたい。また求釈明を行使して審理停頓の排除に努められたい。このままで返答もしない、出来ない側に軍配が挙がるような道理に外れた結果にならないようにして貰いたい。

第5、疑わしきは罰せずについて

 「シベリア抑留」の非道惨状についてはこれ以上言を要しない処であろうし、「シベリア捕虜」の苦難についても同様で、充分にお判り頂けたものと考える。またその運命に至らしめた者が、ソ連と我国の二国であることも明白で、本審の被控訴人は国を特定され、それ以外ではない。そこで申し述べたいのは本事案における裁判において、“事実はそうであろうとも、国は違法とまでは云えない” また “なるほどそのような結果にはなったとしても、国に悪意があったと推認することができない” “心情は理解できるが、法律がない” 等々、灰色ではあろうが黒とまでは云えないとの、まことに歯切れの悪い判断が多いように思われる。既に歴然たる悲劇があり、被害を蒙った多数が存在することは明らかであるに拘らず、さりとて司法は相手が悪いとまでは踏み込まず、そこで“疑わしきは罰せず” が実現しドローのようなことになってしまう。国を相手の裁判はボクシングと違い判定では勝はなく、ノックアウト以外不幸な被害者は救済されることはない。それでは災難だから仕方がないと不運をかこつ外はないことになる。

1、疑わしきは罰すべきではないことは充分理解出来る道理である。人権は尊重されねばならないし、また真の犯人が他にある場合、それは冤罪となって取り返しがつかない責任となる。従って判断にはみだりに踏み込めない英知が欠かせない要件となるであろうが、本件の容疑は国に特定されてそれ以外ではなく、またそれは公務員でも個人でもなく法人としての国である。

2、このような場合は一歩踏み込んだ積極的な判断が必要ではあるまいか、法にさえ触れていなければセーフのルールは、加害側が一方的に有利で公平とは云い難い。被害の事実と加害の申し立てがあれば身のあかしを立てるのは加害者の責任とすべきであり、その結果で白以外の灰色も疑わしきは罰せられるべきであり、公の執行はそのぐらい厳正であるべきが、本来の姿ではなかろうか。

3、 スターリンの宥恕を乞うため我々関東軍65万が敗戦直後 国によってソ達に売り渡された事実は、ソ連側から出てきた文書その他によって明らかになったが、我々はこの非情な国の仕打ちを恨みに思ってばかりいるわけではない。それは辛いことには違いはないが、この犠牲が祖国の再建と国民の身代りの役務賠償となって、お役に立ったことを誇りに思っているからである。我々が怒っているのはそのことではなく、いかにも口惜しいのは国が兵士を売った事実をひたかくしに隠し、何ら責任を執ろうとしないのみか、受難の功労者である我々の訴えを、いわれのないことを因縁を付けてカネをゆすり盗ろうとする ならず者のような扱いをすることであり、このままでは死んでも死に切れないのである。

 そこで伺いたいことがある、国民が国を売ったり背いたりすれば売国奴とそしられて極刑に処せられるが、その反対に国が兵士を敵に売り渡せばどうなるか、前者は法律があるから当然としても、後者は法律が無いからお咎めはない。しかし世の中は法律以前に悪いことは悪いとする道理があり、当り前すぎる大悪には一々法を置かないのが世間の掟である。国が兵士を売るほどの大悪は、法があろうがなかろうが人の道理として許されてよいことではなく、指弾を受けて当然、これが公序良俗というものであろう。国体護持のために多くの兵士を売った国は無条件で罰せられるべきで、そのため被害を受けた者には相応の補償で酬いて当然であろう。それでこそ正義の行われる国といえよう。劉連仁裁判の “正義公平の理念は法の大原則である” との判決は司法の正義を高らかに示したものであった。   
(甲第79号証)

4、「シベリア抑留」の被害は現に発生しているのである。その訴えがあった以上裁判官は実態を調べ、確認できたならば唯一の加害容疑である国の行為、または政策との因果関係の有無を詳しく審理されるべきである。その結果関わりありとするならば、白ならざるは黒であり、これほど明快なことはない。情状の酌量は充分に考慮されるべきであろうが、第一義のシロクロだけはきっちりと決めてこそ裁判ではないか。環境基準を越していない公害裁判でも原告の訴えを認める判例が出る世の中に、これほど道理の通らぬ「シベリア抑留」がこのまま免罪されてよいものか。公正なる判断を希求する次第である。「シベリア抑留」は天災ではない。

第6、今回は原審の判決が被告国の道理にもとる数々の主張を容認し、控訴人らの証拠を添えた請求を悉く棄却したことに対して反諭した。シベリア現地の検証も行わず、重要証人の取調べもせず、事実の認否を怠った裁判が公正である筈がない。原審が依拠した法が何のために、どのような理念のもとに作られたものか、またその解釈が道理に叶ったものであったか、それらが人の心にすんなり納得できない以上正義の裁判とは云い難く、とても歴史の批判に堪えることはできないであろう。控訴人らが国の見解を聞き回答を求めている事項はすべて道理に関わるものであり、請求自体失当、主張自体失当等の狭義な次元で逃れられるものではない。

本件を要約すれば次の通りである。これを本事案の争点として慎重審議あらんことを切望する。老兵らはこれらに正断を得てあぁ道理は正された、祖国は正義を回復してくれたと満足して生を終えたいのが念願である。

1、“極力貴軍の経営に協力する如く御使い下されれ度いと思います。” と関東軍60万の兵士をソ連に売り渡し「国体護持」と取引した事実を反省し、国は謝罪すること。

2、「シベリア抑留」はソ連に対しての役務賠償であった事実を認めて祖国再建の礎となった関東軍兵士の名誉を回復せよ。否というなら、「シべリア抑留」は一体何であったのかを明確に回答せよ。


3、実定法である抑留中の給養費を今に至るも支払わない理由を説明せよ。

4、実定法である“捕虜の労働賃金は支払わるべし” の国際人道法に背き、今に至るも支払わない理由を説明せよ。

5、3項、4項を南方捕虜には支払い、シベリア捕虜には支払わない不公平について説明せよ。

6、日ソ戦争の捕虜の労賃支払義務を怠ったまま、日ソ戦争の終結をうたった日ソ共同宣言は、1949ジュネーブ条約第6条に違反しているから無効との主張に対し、説示も判断も示さないまま棄却した原審は破棄されるべきである。

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