第1章
  2、大阪地裁1009法廷

  <その12> 意外や意外、早くも結審とは・・・。      2000.8.30〜

第8回公判のご案内 判決を前にして もしも・・・の場合

第8回公判(8月25日)のご報告                 2000.8.30.

 法廷もいよいよ佳境に入り、一言半句聞き逃せない状況ですので補聴器を新調し、耳を澄ませて待つうちに開廷。 冒頭に裁判長は厳かに “さらに付け加えることあれば申し述べよ” とのこと。原告側は得たりや応と松本 宏が意見書を読み上げて少憩、いよいよ今から本番かと 手ぐすね引いて待つその時、突如 “これにて結審” のご宣託。 闇夜に鉄砲とはこのことか、一同唖然たるうちに閉廷となりました。

 素人相手にこれ以上は時間の無駄というのか、事実もろくに調べずに、肝心の証人尋問も現地の調査も何一つしないままで打ち切りとは・・・・ あとは判決を待つばかりです。

         判決・・・・12月1日 午後1時15分

 原告の高齢を斟酌してか、はたまた省エネか。何れにせよ各位の厚いご支援のもと、言い尽くし、書き尽くした充足感で待つことができますことは幸いです。

 どうか判決のその日まで健康ご留意、皆さま揃って吉報を待ちましょう。 感謝。

  ひとまずは / 蟷螂斧を / おさめけり

判決を前にして                 2000.10.31.

1、はじめに

 「シベリア抑留」という言葉は広く知られていますが、受け取られる印象はあまり好ましいものでもないようです。飢えと寒さ、ラーゲリと吊し上げなど、悲劇もある程度を越せば同情よりも避けたくなるのが人情で、体験した私でさえ思い出すのも嫌になるほどの自虐を覚えます。戦後55年、この愉快でもない出来事は忘れ去ることが最良の処理法と、弔いもされないまま世紀の底に捨てられようとしています。

 この陰気な事件がなぜ起こり、それがどうであり、どのように始末されたか・・・・残念なことに大正生まれの口下手はうまい主張ができず、ただ辛かった、ひもじかったの泣き言ばかりが伝わったようです。「異国の丘」や「岸壁の母」の単なるシベリアエレジーではなく、「シベリア抑留」は歴史の得がたい教訓として解明されるべきであり、国は傷付いた被害者の救済を急がねばなりません。

 今回不十分ではあれ、訴状という形でこれら解決の鍵を出せたことは、カマキリの本懐とするところです。

2、形勢は非か

 原告はこれらを訴状のほか13の準備書面、9の意見書、及び63の書証と証人尋問書を提出しましたが、これに対し被告国は僅か5の準備書面を出したにとどまりました。原告が “法律がどうであれ先ず事実を調べ、それを認めよ” というのに対し、“事実がどうであれ、それが法律に当てはまるかどうか” “仮に事実であってもどこが悪いのか、法的根拠がない事実調べは無駄である” また “どの役人がいつ、何をしたのが悪いのか、それらを言わない限り返事はしない” と。「シベリア抑留」という巨象を目をふさいで尻尾だけ鼻だけを撫ぜろと、これを「請求自体失当」「主張自体失当」というのだそうです。裁判という言葉を字引で引けば、“どちらが正しいかを裁くこと、または事件に法律を当てはめて判断を下すこと”とあり、法律に事件を当てはめて・・・・とは書いてありません。

 これらは8回の公判を重ね、口頭弁論という名の激しい文書合戦でようやく説明を終え、さて今からが本番のはじまりかと心を引き締めたとたん、裁判長は突如 “これにて結審”を宣言したのです。証拠調べも証人尋問も取り上げず、早々と審理を閉じたのは原告の言い分を聞いていなかったようです。

 しかし張本人のスターリン自身が “役務賠償だ” といい、世界の誰しもが認める「シベリア抑留」を “法的にこれが賠償の一形態であるとは考えておらず・・・・”と国は否定しますが、それでは法的以外では、つまり事実では賠償であると認めるのか。正義の使者である裁判官はこれをどう裁いてくれるのでしょうか。

3、裁判とは

 三権分立の民主主義国で裁判所の扉を叩いたのには理由があります。行政、立法で救われない被害者は、むしろ旗を立てる前に司法の裁きを期待する道があります。政府や役人への請願は酒屋で饅頭を求めるようなもので、また立法府での国会答弁は与野党不毛の平行線、双方が言い争うばかりの、アンパイヤーが居ない場では正邪の決め手が得られない。それならば白と黒がはっきりする司法が頼りで、神聖な裁判官が正しい、正しくない を裁いてくれる、私は躊躇せず訴状を書きました。しかしこの信頼も近頃やや怪しくなりました、法廷はどうも別の基準で動いているらしい“法律があるかどうか、またその法律に触れるか触れないか” の物指しが問題です。

 近頃の公害訴訟では事実と被害の確認、その因果関係が判れば原告勝訴であり、それに法律介入の余地はないように思われます。「シベリア抑留」は“筆舌に尽くし難い辛苦を味わされ、肉体的精神的に多大の被害を被った・・・・” と国自身が認めていることで、それがどうして生じたかの因果関係さえ検証すれば充分のはずです。被害ははっきりと、被害者もはっきり、責任者は日ソの二国と、この明白な図式が裁けないはずがない。万一無罪であればわれわれ原告は罪なき相手を誹謗したことになる、裁判官よ、貴殿が良心に基づいて原告の訴えを退けるのなら

原告の訴えは根拠のない誹謗であるから棄却する

原告の訴えは尤もだが、相手を罰する法律がないから棄却する

以上をはっきりしてもらいたい。そして前者であるならば遠慮は無用、原告らを誣告罪で即刻告発されたい。

4、この国に生を受けた不運

 国際法が大きな争点である以上、広くよその国の事情を知る必要があります。特に同じ憂き目を見たドイツ捕虜諸君の身の上には深い関心を持っています。彼らは国会への陳情も裁判所も、労働証明書も不要で、母国から実に行き届いた処遇を受けています。その捕虜補償法第3条1項は “この補償を以って権利者が外国抑留中の自由剥奪および強制労働を理由として、国に対して有する諸権利は消滅する” とありますが、どういうことかと申しますと、 “これはひどい目に合ったシベリア捕虜の諸君を救えなかった責任、また自由の剥奪と強制労働の二点に対して国と国民の責任としての償いである。” というのであって、未払い賃金がどうの、法律のあるなしなどの浅はかな次元の話ではありません。因みにこの補償受取人は日本と正反対で、支給されるのは「シベリア捕虜」だけ、英米仏など連合国に捕らわれた兵士は受け取れません。なぜなら彼らは我が国の南方帰還の捕虜と同様、労働賃金や充分な給与を既に受け取っているからです。すべてが正反対の我々はこのような薄情な母国に生を受けた不幸をしみじみ悔やむ以外にないのでしょうか。

5、イギリス捕虜の場合

 新聞の報ずるところによればブレア首相は、戦争中に日本に抑留された捕虜に対し、1人1万ポンド(約160万円)の補償を行うと約束しました。この問題は平和条約により1人当たり76.5ポンド(当時約8万円)の日本からの賠償金で解決済みとなったものですが、今に至り少な過ぎるとして、1人2万2千ドル(約300万円)の追加賠償を求めた裁判に関係があります。なるほど少な過ぎる、当時南方から帰還した日本捕虜でさえ300ポンドの労働賃金を受け取っているからです。しかし焦土と化した当時の日本に支払い能力はなく、労働証明書を発行する管理能力もなく、やむなくカナダなどにあった在外資産を差し押さえて処分し、国際赤十字社の計らいで配分したもので、あとは債権放棄となって決着をつけたものであります。ほとんど勝ち目のない訴えでもこれをやるのが老獪なゼニトルマンの本領で、これを見かねた英国政府が今回自国払いの英断に踏み切ったものであります。捕虜の賃金は結局のところ自国払い、これが文明世界のルールであり、以後のカマキリ裁判にも深い示唆を与えるものです。

6、終わりに

 これら道義的先進国の例を見る限りにおいて次のことが明らかであります。

捕虜の労賃またはそれに代わる補償は支払われるべきであること。

加害国が払わない場合は母国が代わって償うこと。

国内法のあるなしに拘らず国際法、国際慣習法が実定されるのが文明世界のルールであること。

本件は来るべき判決いかんに拘らずいずれは高裁へ持ち込まれる事案ですが、私たちはこれらの経験を踏まえ、国際法を中心に急所一突を期したいと考えます。

以上、判決を前にして思うところを述べましたが、一年有半の戦いを満足のうちに回顧できるのは大きな喜びです。判決の首尾はともかく、多年のわだかまりを吐露できたことは、これを胸中に持ったままの冥土行きに比べどれだけ幸せか、目の色の黒いうちに納得の行くまで叫ばなくて何の余生か。いま私には密かな楽しみが一つあるのです。“世紀末の我が国はなんと酷い裁判をしたものだ、見ろこのシベリア裁判を・・・・ しかし老兵たちの朴強は愛すべしだナ” このような会話が後世に交わされて、はじめて現司法は厳しい弾劾を受けることでしょう。

もしも・・・・の場合>                2000.11.24.

 歴史を語るときに “ もしも・・・・” は禁句だと言いますが、判決を間近に控えたこのひとときに、タブーを犯してみたい強い誘惑にかられます。

“12月1日、もしも裁判官の心の回路に正義の電流が流れたならば・・・・” そのとき私は誰に、何を叫ぼうとするでしょうか

その1 マスコミさんへ

 有難いことですが突然のご取材で少々面食らっています。ハイ、そのことでしたら提訴以来ずっとお知らせして、えぇ記者クラブのほうですが。資料も毎月お渡し済みでお読み下さっているはずです。しかし一度も記事にはなりませんでした。今日の感想ですか? 司法の感覚のほうがマスコミより鋭いな と言うことです。当然のことが当然と認められただけのことで、司法の良心いまだ健在、原告として高く評価し敬意を表します。いや、嫌味ではありません、むかしは新聞は社会の木鐸といわれたものです。日本の良識を自負される皆さん、どうか雑草の群れの中からも筋の通った確かな芽を見逃さず、早く世間に知らせるようにしてください。弱者の側に立つ侠気と真実を洞察する直感、この二つが大事だと思います。  どう言う意味かって・・・・では一つの例を申し上げましょう。

 朝日さんはお帰りになりましたら昭和61年10月30日の社説を、読売さんも中部版の同年12月8日社説をお調べください。そこには何が書かれているか、表現の違いはありますが共に “「シベリア抑留」は戦後40年間に曲りなりにも施策がなされており、新たな個人補償はなすべきでない” と述べておられる。これは全抑協裁判が5年有余の歳月を費やして漸く結審され、判決を間近に迎えるという微妙なときの報道でした。判決に重大な予断を抱かせるこの否定的な社説をシベリアの老兵たちがどのような思いで読まされたか。その一人である作家のいまいげんじ氏は即刻 “曲がりなりにもされたという施策があると言うなら示してみよ、そんなものを受けた覚えは無い。裁判に予断を与えるごとき大新聞の態度はなにごとか ” と峻烈に批判されたものです。この裁判の本義は「シベリア抑留」に対して国が法律的にも道義的にも間違っている、その罪を問うているのに社説はあたかも捕虜に恩恵を施すべきか否かのように勘違いされている。これには巨額のカネがかかるなど損得の問題ではなく、正しいか否かが争点でありました。残念ながら社説には正しい真実への洞察と弱者への理解が抜けていました。新聞は権力の提灯を持つべきではないと思います。

 その2 法曹、法学界の先生方へ

 今回の原告勝訴は平成9年の「シベリア抑留裁判」を棄却した最高裁が実は誤審であったということであります。「シベリア抑留」の訴えは1949ジュネーヴ条約に遡及し、また国際慣習法にも適合するのは揺るがぬ事実であり、今回それらを否定してクロをシロと偽り続けた国の違法がはっきりしたことであります。これらは純粋な国際法上の問題であったにもかかわらず,その当否を巡って学会で活発な論争が行われたとは聞きませんが、それにしてもこのシビァな世の中に、なんと呑気で太平楽な業界もあるものですね。原告側に立って論陣を張ってくださった一部の方々を除き、いったい専門の諸先生は何をなさっているのか、一度お訊ねしたいものです。

 その3 歴代与党の諸先生へ

 「シベリア抑留」における国の処遇が極めて不公平、不条理であることは誰の目にも明らかであったにも拘らず、今回司法の判断を待つまでの長い間、何一つ正されず措置も方策も講じられなかった立法府の責任は怠慢というより犯罪ではありませんか。

 特に歴代与党の先生方は毛ばりを投げ、好餌を掲げて無知な抑留者の鼻面を引き回し、集票を終わればたちまち前言を翻して遂には一物も与えず老境に追いやった行為は許しがたい責任です。いっぽう戦争を引き起こして300万余の同胞を殺し、祖国を亡国の淵に至らしめた戦争責任者の多くはぬくぬくと恩給を取った上、このような仕組みが公然とできる国家を作ることに協力した、すなわち国体は事実上護持されたのであり、そうあらせるために60万の関東軍将兵をソ連に売った勢力と、我々を泣き寝入りさせて恬として恥じない勢力はまさに同じ体質のものであることを、この際われわれは銘記すべきでありましょう。

 その4 相沢英之先生とそのご一統へ

 人はそれぞれ考えが異なり、歩みもさまざまであるのは世の常であります。このご一統は同じ「シベリア抑留」の仲間であり、ともに補償を要求したのですが、不幸にして意見の相違から分裂して別々の道を歩んだ人々であります。すなわち国と争うことを避けて政権与党に依存し政治決着を図ろう、カネも出させようとの運動に走られたのであります。しかし与党の先生の方が役者が一枚も二枚も上で、前項のような経過を経て頓挫しています。仲は良くありませんがこの二つの団体の目指す目的は同じで、その一つは「シベリア抑留」はソ連への役務賠償であり、国と国民に代わって果たした奴隷的苦役であったことを認めてもらいたい。二つ目はその功績と労働対価に相当する補償を求めることでありました。考え方や手段が違っても目的が同じなら、仲がしっくりゆかなくても高いところで手を結び、国への運動は一方が押せば片方は引き、時に和し、また陽動して多岐自在な作戦がどうして取れなかったのか、いまさら双方の寛容と英知の不足を悔やんでも致し方がありませんが、これは我が民族の資質に関わる問題のようです。シベリアの極限の中でも分裂を繰り返し、つるし上げ、誹謗、裏切り、双方がふらふらになって結局はソ連に操られました。ダモイのあとも同じで挙句の果てはまんまと国にしてやられ、政府の御用組合にまで成り下った相沢派はさぞかし後味が悪いことでしょう。

 確執の根はいろいろありましょうが、この一派の罪悪は補償裁判というマグマのようなエネルギーに水を差し、国の前衛として裁判の壊し屋を演じて運動の目的を大きく裏切ったことです。私はこの方々に伺いたいことが一つあります。斉藤六郎が武運つたなく裁判に負けたとき、貴方がたの心情は次のどちらであられたか? 正直なところをお教えいただきたいのです。

言わぬことではない、そもそも国に逆らって勝ち味の無い裁判をやったことが間違いの元、少しは懲りるが良い、ざまを見ろ

あぁ これで補償の望みもお流れか、少しは当てにしていたのに・・・・残念。

 全抑協の裁判は敗れましたが意味の深い判示を残しました。 “労働賃金の支払いを可能とする立法措置が講じられていないことについて不満を抱く原告らの心情も理解し得ないものではない・・・・そのためには総合的政策の上に立った立法措置を講ずることを必要とする” これは最高裁の示唆であり消極的勧告でもあります。これを受けて立法化の推進が検討されているとき、相沢先生はいったい何をおやりになられたか、補償要求を断念して出された「質問趣意書」は“我々は捕虜であるのか、抑留者であるのか” など、およそ的外れの禅問答で、老兵の期待を大きく裏切っておられる。

 相沢先生、このような実のない行為、あるいはその人を指して我々は彼の地でヨッポエマーチと呼んだものですが、どうか今回の戦果を基礎にして補償法案の成立にご尽力くださいまして、決してそう呼ばれるいわれのないことをご証明頂きたいものであります。

 その5 茨の道の先達へ

 この日のために尽くされた方々、今日の勝利は貴方たちのものです。特に運動の草分けとしての長谷川宇一、その火種の継承者前田明宏、推進者斉藤六郎の慰霊に満腔の敬意をささげます。
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