第1章
  2、大阪地裁1009法廷

  <その13> 蟷螂を 鎌で切るとは 卑怯なる <朝日俳壇>
                                 
2000.12.1

平成11年(ワ)第3409号 損害賠償等請求事件

       大阪地裁 判   決      2000.12.1.

主文

 一 原告らの請求をいずれも棄却する。

 二 訴訟費用は原告らの負担とする。

事実   略

理由 

第一 争点に対する判断

 一 原告らの主張1,2について

1、原告らは、被告が旧ソ連に対する労役賠償として原告らを旧ソ連に引き渡した旨主張しているので、判断する。

(一)前記によれば、以下の事実が認められる。

(1)昭和20年7月12日、我が国は特使として近衛特使をモスクワに派遣し、旧ソ連に連合国との和平交渉斡旋を申し入れることにしたこと、その和平交渉案の中には「海外にある軍隊は現地において復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、やむを得ざれば、当分その若干を現地に残留せしむることに同意す」「賠償として、一部の労力を提供することは同意す」「若干を現地に残留とは、老年次兵は帰国せしめ、若年次兵は一時労務に服せしむること、等を含むものとす」との項があったこと

(2)朝枝参謀名義の昭和20年8月26日付け実視報告書(総参謀長の所見を含む)及び関東軍総司令部名義のワシレフスキー報告書が存在し、その内容に照らしてこれらが旧ソ連に提出されたことが窺われること

(3)実視報告書には「「武装解除ノ軍人ハソ連ノ庇護下ニ満鮮ニ土着セシメテ生活ヲ営ム如クソ連側ニ依頼スルヲ可トス」との記載が、「内地帰還希望者ヲ除ク外ハ速ヤカニソ連ノ指令ニヨリ各々各自技能ニ応スル定職ニ就カシム」との記載がなされており、これに関東軍総参謀長名義の「全般的ニ同意ナリ」「武装解除後ノ軍隊ノ処理・・・ニ就イテハ・・・至急連合国最高司令部トモ話合ヒノ上措置スヘキモノト思考ス」との所見が付されていること

(4)ワシレフスキー報告書には、「軍人の処置であります。之につきましても貴軍において御計画あることと存じまするが、元々満州に生業を有し、家庭を有するもの竝に希望者は満州に止どまって貴軍の経営に協力せしめ、其の他は逐次内地に帰還

(5)せしめられたいと存じます。右帰還までの間に於きましては、協力貴軍の経営に協力する如くお使い願いたいと思います。殊に目下在隊中の将兵の中には数万の満州在籍者が居りまして、此等が夫々元の職場に復帰致しますれば、食料、交通、一般産業の運営に相当役立つものと考えます。」との記載がなされていること。

(6)本件閣議報告が認定したとおりの内容であったこと

    (ニ) そこで判断するに 近衛特使作成の交渉案に前期記載の内容があったこと     は前期認定のとおりであるが、他方、右のような和平交渉が検討されたのは、ポツ     ダム宣言(労働賠償を要求していない)及び我が国によるその受諾より以前のことに    すぎず、また、近衛特使の派遣自体が結局実現されず右和平交渉案も提示されな    いままに終わっていることに照らすと、右和平交渉案の内容をもって、我が国の政府    中枢が、旧ソ連によるシベリア抑留の段階でも同様の考えを有していたものと推認     することはできない。

また、実視報告書及びワシレフスキー報告書の書く記載は、内地帰還を希望しない者が「満鮮」に引き続き居住する場合、又は内地帰還を希望する場合は帰還までの間の、元の職場への復帰等による協力を述べたものにすぎず、現実には、その後、帰還を希望する者もシベリアに強制連行、抑留され、強制労働に服させられた等の事実があったとしても、右各記載から、被告が旧ソ連による武装解除後の軍隊のシベリア抑留、強制労働を容認したとか、容認する意図を有していたものと推認することはできない。さらに、本件閣議報告にしても、昭和20年10月16日に下村陸相から本件閣議報告がなされ、翌日これが新聞で報道されたことは既に見たとおりであるが、右報告は、全体として見れば、原告ら軍人、軍属の我が国への帰還について、当時我が国が用い得る船舶の状況等から推定した帰還の見通しを報告したものにすぎないことは明らかであり、また「南鮮ニ引続キ認可セラルルモノトシテ」なる記載を原告ら主張のように解し得るかも疑問であって、右の事実から直ちに、右閣議において政府が旧ソ連のシベリア抑留、強制労働を承認したものと推認することもできない。

そして、他に、我が国が、原告らを労役賠償として旧ソ連に引き渡したことを認めるに足りる証拠はないから、この点に関する原告らの主張は採用できない。

2、また、原告らは、原告らのシベリア抑留及び強制連行を被告が放置したとも主張しているので、判断する。我が国は、ポツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印して以来、連合国との間の平和条約が発効するまでの数年間、連合国による占領管理下に置かれ、連合国の占領政策に忠実に従わざるを得ず、我が国の統治機構は一応存在していたものの、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のため必要と認める措置をとる連合国最高司令官の制限の下に置かれ、法的、政治的に見れば、独立国家としての地位と権限を有するには至っていなかったこと、連合国は、間接統治の方策をとったから、右の制限下ではあるが、我が国も、憲法を制定し、国会において法律を制定し施行することができたものの、連合国との平和条約発効前においては外交の権限を持たず、国家主権を対外的に発動する手段を持たなかったため、我が国の政府が旧ソ連による日本人将兵の抑留及び強制労働を解消しようと欲しても、これを実現するために有効な手段は存在しなかったこと等に鑑みれば、外交保護権不行使等を理由とする賠償請求が成立する余地はないものといわざるを得ないし、また、連合国最高司令官に対する抗議、申し入れ等の働きかけの点をいうものとしても、それがなされず又は不十分であったことに対する当不当の観点からの非難はともかく、法的に、これを違法として、被告に対する賠償請求を認めるべき作為義務等の根拠が明らかでない。

3、そうすると、原告らの主張にかかる、被告の違法な作為又は不作為の存在を前提とする国家賠償法1条1項又は民法709条等に基づく請求は、その余の問題を審究するまでもなく、その前提を欠くものとして理由がない。

4、また、原告らは、憲法17、18、29条3項に基づく損失補償をも請求しているので、判断する。

原告らが、第2次世界大戦後、シベリアの収容所に捕虜として抑留され、強制労働を課せられたことは前期認定のとおりであり、酷寒の収容所において、劣悪な環境の中、原告らを含む多数軍人、軍属が日々過酷な労働を強いられ、肉体的にも、精神的にも、筆舌に尽くし難い辛苦を味わったことは証拠からも明らかなところであって、当裁判所としてもまことに痛恨の念にたえない。

 しかしながら、戦争中から戦後にかけての国の存亡にかかわる非常事態の中にあっては、すべての国民が、多かれ少なかれ、その生命、身体、財産の犠牲を堪え忍ぶことを余儀なくされていたのであって、これらの損害は、いずれも戦争損害として、日本国民の等しく受忍しなければならなかったところであり、これらの損害に対する補償は憲法各条項の予想しないところというべきところ、原告らを含む多くの軍人、軍属が、長期に亘り、シベリアに抑留され、強制労働を課せられるに至ったのも、我が国の敗戦によって生じたものといわざるを得ない。そして、その補償の要否及び在り方は、事柄の性質上、国政全般にわたる総合的政策判断を待って初めて決し得るものであって、憲法各条項によって一義的に決することはできず、国家財政、社会経済、戦争によって国民が被った被害の内容、程度等に関する資料を基礎とする立法府の裁量的判断に委ねられるものと解するのが相当であり、憲法17,18,29条3項に基づいてシベリア抑留等による原告らの損失の補償を求めることはできないものといわざるを得ないから、この点に関する原告らの請求も、その余の問題に審究するまでもなく、理由がない。

5、なお、原告らは、被告が労役賠償として原告らを旧ソ連に引き渡した等の点について謝罪広告を請求しているが、右請求の根拠法条が明らかでない上、仮に、これを憲法17条、29条3項、国家賠償法1条、民法709条、国際人道法を根拠とすると解したとしても、右各規定は、いずれも謝罪広告請求の根拠となるものではない。また、そもそも、原告らが主張する労役賠償等の事実が認められないことは既にみたとおりであるし、原告らが旧ソ連おけるシベリア抑留、強制労働により被った損害については如何なる措置を講ずべきかは、立法府の裁量的判断に委ねられたものと解すべきであることからしても、原告らの右請求も理由がないものという他ない。

二 原告の主張3について

1、原告らは、被告に対し、49年ジュネーブ条約66条の自国民捕虜補償原則に基づき、原告らの貸方残高の支払いを請求できる旨主張する。

 一般に、条約は、別段の意図が条約自体から明らかである場合及び別段の意図が他の方法によって確認される場合を除き、遡及的に適用されないものと解される。

この理は、条約法に関するウィーン条約28条にも「条約は、別段の意図が条約自体から明らかである場合及び別段の意図が他の方法によって確認される場合を除くほか、条約の効力が当事国について生ずる日前に行われた行為、同日前に生じた事実又は同日前に消滅した事態に関し、当該国を拘束しない。」と規定されて明らかにされているところである。

 そして、同条約中に他に右の意味での遡及適用を認める旨の既定はないから、捕虜の待遇に関する49年ジュネーブ条約が我が国と旧ソ連との間において効力を生ずる以前に捕虜たる身分を終了した者の法律関係の処理について、同条約を遡及して適用することはできない。

 これに対し、原告らは、日ソ共同宣言がなされるまで、我が国と旧ソ連との第2次世界大戦の戦争状態が継続していたのであるから、同条約141条の規定によれば、第2次世界大戦の結果につき同条約が適用される旨主張しているが、同条約141条は、同条約138条が、同条約の効力の発生時期について各締結国が批准書を寄託した6ヵ月後等と定めているため、既に戦争ないしは武力紛争の状態にある当事国が新たに49年ジュネーブ条約に加入して同条約の定める規定や利益等を享受しようとしても、直ちに同条約の恩恵等を享有できないという不都合が生じることになるため、右事態の回避のために、既に当事国において敵対行為又は占領が開始されているときは、批准書の寄託又は加入通告書の受領の日から、また、批准書の寄託又は加入通告書の受領がなされながら、未だ前記猶予期間が経過する前に敵対行為又は占領が開始されたときは、その時点において、直ちに条約の効力が発生することとしたものにすぎないから、49年ジュネーブ条約141条を根拠に同条約が第2次世界大戦及びこれに基づく事実に適用されるとする原告らの主張は、採用できない。

 したがって、原告らの49年ジュネーブ条約に基づく請求は理由が無い。

2、また、国際慣習法に関する原告らの主張の趣旨は必ずしも明らかではないが、これを、第2次世界大戦終了時あるいは原告らがシベリアに抑留された時点において、自国民捕虜補償原則が国際慣習法として成立しているものと解したとしても、国際慣習法が成立するためには、諸国家の行為の積み重ねを通じて一定の国際慣行(一般慣行)が成立していること及びそれを法的な義務として確信する諸国家の信念(法的確信)が存在することが必要であるところ、本件全証拠によっても、原告らシベリア抑留等の当時、捕虜の所属国において、抑留国が捕虜に支払うべき貸方残高を決済し、抑留中の労働による負傷又はその他の身体障害に関する補償をなすべきとの一般慣行が成立し、かつ、その旨の法的確信が存在していたとは認められないから、原告らの請求は理由が無い。

3、また、原告らは、被告が南方捕虜に対してはその抑留中の労働賃金に相当する金額を払ったのに、原告らシベリア抑留者に労働賃金を支払わないのは、法の下の平等を定めた憲法14条に反する旨主張しているところ、原告らが、右により具体的にどのような請求を行うのかも必ずしも明らかではないが、被告が原告らシベリア抑留者に対し労働賃金を支払う旨規定した立法を行わないのは、法の下の平等を定めた憲法14条に反するから、右立法不作為により原告らが被った損害について、国家賠償法1条1項に基づき賠償を請求しているものと解する余地がないでもない。

そこで、この点について検討しておくに、弁論の全趣旨によれば、被告が南方捕虜に対しては、同人らが所持する貸方残高証明書等に基づき、抑留中の労働賃金相当額を支払ったが、旧ソ連から帰国した原告らを含む捕虜に対しては右に相当する金銭の支払いが無かったことが認められ、原告らが捕虜たる身分を失った後であるとはいえ、抑留国から捕虜に支払うべき貸方残高について捕虜の所属国がこれを決済する責任を負う旨を定めた49年ジュネーブ条約を被告が批准したことをも考慮すると、シベリア抑留者の抑留期間中の労働賃金の支払いを可能とする立法措置が講じられていないことについて不満を抱く点は理解し得ないものではないし、証拠及び弁論の全趣旨によれば、平成5年、ロシア共和国政府は、被告に対し、労働証明書をシベリアで強制労働を課された日本国の軍人、軍属に交付していることを通知するとともに、被告がそれらの者に対する貸方残高の支払いについて対応措置をとるよう要望し、実際に、原告木谷については、右労働証明書を受領したことが認められる。

 しかし、弁論の全趣旨によれば、原告らに抑留中の労働賃金又はそれに相当する金員が支払われなかったのは、当時、原告らが貸方残高等の証明書を所持しなかった故であり,被告において、原告らシベリアから帰還した捕虜とそれ以外の地域から帰還した日本人捕虜とを差別する意図の下に、原告らの貸方残高の決済をしなかったものではないし、我が国の主権回復後、捕虜の抑留期間中の労働賃金を被告において支払うかどうかの問題は、先に認定したとおり、戦争損害に対する補償の一環をなすものとして、立法府の総合的政策判断にゆだねられるものと解すべきである。

 そして、シベリア抑留者に対する補償の問題は、立法府においても、一定の立法措置や慰藉の措置が講じられるなどしてきたことは、当裁判所に顕著であり、戦後補償立法の策定に当たり、シベリア抑留者が過酷な条件の中で長期間に亘り抑留され、強制労働を課せられたにもかかわらず、その抑留期間中の労働賃金の支払いがされていないという事情については、立法府において一応の考慮をしてきたということができるから、立法府が、シベリア抑留者に対し、その抑留期間中の労働賃金を支払うための立法措置を講じていないことをもってその裁量の範囲を逸脱したものとまではいうことができず、したがって、原告らの主張を前記のように解したとしても、原告らの請求は理由がない。

第三 以上によれば、原告らの請求は理由なきに帰するから、訴訟費用の負担について民訴法61条を適用して、主文のとおり判決する。

(平成12年8月25日口頭弁論終結)

           大阪地方裁判所第16民事部

                   裁判長裁判官          小野洋一

                        裁判官          尾立美子

                        裁判官          見宮大介


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