第1章
  2、大阪地裁1009法廷

  <その6> 日ソ共同宣言の不法性についての訴え  2000.2.25〜


原告第7準備書面               2000.2.25.

 1956年10月19日、モスクワにおいて調印された「日ソ共同宣言」はシベリア抑留問題を真面目に交渉した跡がどこにも見られず、ために片務的不利な条件で締結されたのであるが、そもそも日ソ両国とも捕虜の身分と権利を明示した国際人道法に大きく違反しているのでこの宣言は無効である。

第1 「日ソ共同宣言」の不実行為について

1、予備交渉以前

 被告国の当初の気持ちを一言で申すならば “国際法的に捕獲国が敗戦後の俘虜又は、残留者を使用する権利は認められていないのであって、これらに対する賠償支払いの要求は来るべき講和会議の一重要項目となるであろう。(外務調書「引揚問題の経過と見通し」) ”にうかがえる。

2、敗戦後日ソ間には領土問題、抑留問題等国民の心に癒し難い禍根を残したままで打ち捨てられ、漸く1955年頃より現実的必要から和平への歩み寄りがはじめられた。交渉の全権は政府の専権事項であるとは言え、これには広い層からの声、国民の心情等に深く耳を傾け、とくに犠牲を受けた当事者の要望はしっかりと把握して交渉の土台とすべきであった。それであるのに抑留問題処理について説明や相談があったとは聞いたことがない。僅かに国会の委員会辺りで行われたようであるが、これらは非公開という密室内のことであり大衆の耳に入ってこないのである。以下は伝聞である。

 昭和56年2月17日第1回内閣部会内閣問題等に対する小委員会(出席議員19名政府委員1名で計20名)の席上で政府委員は左の通りの発言を行った。

@    入ソ者の軍人軍属は給料を留守宅渡しとしている。

A    入ソ中の死亡確認が出来ない。

B    ソ連は戦時俘虜、我々は抑留者、国際法では俘虜、国内法では抑留者これにも異論ある。外務省、厚生省で見解を出すこと。

C    ソ連の間に7年間協定がある。(外務省)

D    国家賠償を放棄する要

E    ソ連の5ヵ年計画に賛同署名させられたところもある。

 これら内密の情報や都合の悪い資料は中々手に入らないものだが、それでもいつとはなく庶民の耳に入るのである。日ソ予備交渉も会を重ねて20回、ほぼ双方が合意するに至った1956年2月10日の直前、シベリア抑留問題に関する重要な委員会が非公開の場で開かれていたのである。

 1)ソ連の間に「7年間協定」がある。(外務省) これを知って やっぱりそうであったかと合点がゆくことがある。引揚運動の父と言われた大木英一氏がソ連代表部デレビヤンコから聞いた賠償労役7年説の存在がそうである。“無理は言わんから日本の捕虜を7年間貸してくれ、7年貸してくれたらすっと帰す” (第5準備書面第2の2)日ソ間に密約があるらしいとの噂はあながち根も葉もないことでもなく、大木氏は時の総理大臣に舌鋒鋭く迫っている。“7年間もこき使われたら皆死んでしまう。どうしても必要なら交代要員を出せ” と。7年説もこうして二つを重ね合わせると不思議に平仄が合い、真相が見えてくる。密約にせよ、暗黙の申し合わせにせよ、事は重大で、これを公開するのは国の義務である。

 2)   それよりも重大な項目は、国家賠償を放棄する要云々である。被告国はこのときソ
連からは一銭も取れないことや、シベリア抑留の請求権も放棄せざるを得ないことを報告し、極秘事項として委員の承認を得たもののようである。それならば放棄した捕虜の補償をどうするのか、国はそれを免れる算段として「日ソ共同宣言」条文作成の中で方策を巡らせている。

3、予備交渉の中で

 1)      日ソ両国が講和を結ぼうとその気になり、ロンドンでの第2回会談(1955年6月7日)で、我国は交渉の基礎として7か条の覚書をソ連側に出している。

@    残留日本人の早期送還

A    国際関係権利義務への考慮

B    領土問題

C    漁業問題

D    経済交流

E    平和回復

F    日本の国連復帰への協力

 であるが、驚いたことにはシベリア抑留とその犠牲に対しては何事もなかったように一言半句触れていないのである。賠償の問題を出したのは逆にソ連のほうで、第3回会談(1955年6月14日)において、ソ連側は自国の主張を盛り込んだ12箇条の草案を提示した。その3に ソ連邦は日本国に対する一切の賠償請求権並びに1945年8月9日以来、戦争の期間中日本国、その団体及び国民がとった行動の結果として生じたソ連邦、その団体及び国民の日本国、その団体及び国民に対するすべての請求権を放棄する。その4に 日本国は戦争から生じ、又は極東における戦争状態の存在のためとられた行動と関連するソ連邦、その団体及び国民のすべての請求権をその性質の如何を問わず、日本国政府、日本国の団体及び国民の名において放棄する。

 提案もしない我方に比べ少なくともソ連は提案し話し合おうとしている。これに対し、第9回会談(1955年8月2日)の日本側意見陳述で松本俊一全権はその7項において “請求権問題として相互放棄の趣旨については同意見であるが、条文の表現方法についてはこれを留保する。” と早くも本筋で合意し、引き続き第17回会議(1956年1月24日)において双方が同意である旨を確認している。それらの経緯を経て、ソ連案二つを一つに纏めて宣言されたのが次の「日ソ共同宣言」6である。

 “日本国及びソヴイエト社会主義共和国は1945年8月9日以来の戦争の結果として生じたそれぞれの国、その団体及び国民のそれぞれ他方の国、その団体及び国民に対するすべての請求権を相互に放棄する。” (吉沢清次郎著「日本外交史第29巻」)

 2)交渉段階の早くから趣旨については同意見なりとし、条文の表現のみを留保していたことからこれを作り変える作業は我方であり、それをソ連側が追認したもののようであるが、何の理由でわざわざ書き直す必要があったのか、一つはソ連への追従である。

 3)   前段で勝者ソ連が放棄したものは賠償請求権であり、スターリンが言うところの特別勘定で、シベリア出兵以来の張鼓峰、ノモンハン等国境紛争による損害計820億ルーブル余のツケである。(ソ連政府財務部)その賠償請求権をタダの請求権から切り離して別段にすると、放棄したソ連の気前の良さばかりが浮かび上がりこの表現は既に実質を取って満足しているソ連にとって何一つ不足はない。ましてその手間を相手がやってくれるのであるから尚更のことである。

 4)   後段は片方ではなく相互の放棄になっているが、ソ連に8月9日以後の請求権なんてものがあるというのか、あると言うなら出させてみよ、中立条約を踏みにじって侵入し、僅か7日、火事場泥棒同然の荒稼ぎでまだ足らないとでも言うのであろうか。反面やられっ放しの我が方は損害甚大で、80億ルーブルに及ぶ在満資産、それに加えて60万将兵の労働利益は桁外れで計算も出来ないほどの甚大なものである。かくして建国以来最大の屈辱であるシベリア抑留の清算は相互放棄の美名のもとに消されてしまったのである。

4、  ソ連側の素朴な原案をかくも精緻な条文に仕立て上げた才能には敬服のほかはないが、その底には深い企みが秘められ、シベリア捕虜の補償を免れようとする意図が散見される。“ソ連抑留者の強制労働によりソ連が利益を得たという事実があったとしても法的にこれが賠償の一形態であるとは考えておらず、従って特別の措置を講ずることは考えていない。”(1980年10月9日 総理大臣鈴木善幸答弁) また“賠償とは国際法上のことであって、日ソ両国の合意が必要であり、これがない限り法律上の賠償はない。日ソ両国とも日本将兵の強制労働を賠償なりと合意した事実はなく、賠償の一形態とは考えていない・・・・” これらは被告国が多用する極まり文句であるが、反面 “賠償ではない” とはっきり表明もしないのであって、つまり日ソ双方が合意を避けているだけの話なのである。そのための苦しい弁明は次のとおり

 1)実際上はどうであれシベリア抑留が賠償であるとは日ソ両国で一度たりとも協定を結   んだことはない、結ばないのだ。結べばそれに対して補償は付きものだ。

 2)双方がそれぞれ請求権を主張しそれを相殺したのであればともかく、お互いが取り下  げたのであるからその瞬間に賠償や請求権は自動的に消滅している。消えたものに両  国はそれ以上話し合う必要はない。

 3)   相手側が自主的に賠償請求権を放棄してくれてゼロになったものを、我国は抑留の  労役などで償う必要は何一つない。

 4)   シベリア抑留は単なる請求権であって、勝者の権利である賠償請求権とは次元が異  なり、肩代わりできる性質のものではない。

 5)   シベリア抑留というソ連の不法行為でおこった役務賠償は相手が勝手にやったこと  であり、それを我方が条約で認めさせられるのは余りにも口惜しい。事実がどうであろう  と賠償とは認め難い。

5、双方の求償権で清算したいのであれば共に加入している国際人道法に基づいて行えば何の不都合もないことである。まず日本側は自国捕虜に相応の労働対価や給養費などを補償し、それに他の損害を加算してその総額をソ連に請求する。ソ連もまたその総額を当方に示してこれを相殺する。合意に至れば差額を払い決済する。かっての日露戦争のときの捕虜経費に関する清算もこの方法がとられ、ロシアは日本にその不足額5千万円(当時)を送金して解決している。

 1)今回この明朗会計型で清算ができなかったのには訳がある。実に簡単なことだが日本国はシベリア捕虜に対して一銭も払っていない、これでは請求書に書きたくても書けないのである。ソ連側から “おたくの勘定はいくらですか” と問われても答えようがない。世界先進の国々のようにきっちり補償を払っていてこそこれこの通りと説明が出来、はじめて求償の権利が生ずるのである。

 2)賠償権を放棄してくれたソ連を気前の良い国だと思う人があるだろうか。欲の深いことでは定評のあるソ連はとうの昔にモトを取ってお釣りがある。本来なら中国に引き渡すべき在満資産の強奪とシベリア抑留の莫大な労働力で既に回収を終えて不足はない。彼らが困るのは条約や宣言を踏みにじって侵入した無法、人道を無視したシベリア抑留、それらがまたぞろ世界中に知れ渡ることであった。冷戦下の時代に寝た子を起すような愚はしたくなかったのである。一方我方も同胞を役務賠償として敵手に引き渡した恥は言いたくない。また賠償を認めれば捕虜への補償が追ってくる。両国ともこのことに関しては珍しく意見が一致して魚心あれば水心、以心伝心ウヤムヤのうちに葬ってしまったが、これは国辱的な談合である。

 3)昭和31年11月17日、第25回参議院国会質問、八木幸吉議員 “共同宣言の6に、賠償請求権放棄の規定がありますが、苦痛と損害を受けたのは、わが国日本であってソ連ではないのであります。侵略国にして、一方的開戦者たるソ連が放棄した賠償の内容は具体的に何があるのか承ってみたいのであります。” これに対し外務大臣重光 葵の答弁は次の通り、 “賠償問題については、サンフランシスコ条約で賠償の問題を取り扱っておる条項に準じて、これは規定をいたしております。そこで双方どういう要求があるかということは詳細には交渉の段取りに出て参ってはおりません。しかしながら、かような問題は将来何かと問題にならないために、はっきりとさしておく必要があるのでありますから、国交の正常化の際にもう一括さようにきめて、そうして将来のいざこざをなくして平和関係を確立しよう、こういう考えになってまいったのであります。”この応答でも明らかなように放棄した双方の賠償内容がはっきりしないドンブリ勘定で、また外務大臣の言うはっきりとさせておく必要は現在ますます不透明、将来のいざこざの種を蒔いた責任は重大である(甲第45号証)

 4)最近のロシア側の情報によればシベリア抑留の死者は6万2千名ではなく実に11万3千人にのぼると伝えている。これが事実であるなれば砲火が治まった平時において、元気盛りの壮丁が5人に1人は死んでいるのである。この当時ソ連側の公表犠牲者数は僅か3957名であったが、その数さえ確かめない段階で文句の一つも言わず請求権を放棄するとは一体どんな神経であるのか。“なぜ俺はこんな所で死なねばならんのか、” と息を引き取った仲間の疑問に、この宣言が答えているとは思えない。

 5)これら「日ソ共同宣言」交渉過程のどこをとってもシベリア抑留の文字はなく、捕虜の名誉回復と正当な権利の主張もなく、相手の無法には断固として戦う気概は更になく、即ち何もしなかったのである。それに加えて原告らの持つ請求権を無断で放棄したのだがこれは二度目の無条件降伏であり、我々は被告国により再度見離され、受難と背信の煮え湯をまたも飲まされたのである。

6、調印後の批准

 「日ソ共同宣言」を批准するため開かれた衆参両院議会及び特別委員会において、特に第6項シベリア抑留の請求権については議場誰一人として声なく、質疑を尽くすこともなくまったくの空白審議に終わっている。詳しい説明をしない政府も政府ならそれを聞いて正す方も失語症と、実に驚きいったる現象はまさに白昼の暗黒劇である。僅かに二、三の例はあるが、これは在満資産を論じたもので、ここでもシベリア抑留のシの字もない。

 1)   昭和31年11月22日、衆議院日ソ共同宣言等特別委員会において質問、中崎 敏  委員。 答弁 厚生大臣小林英三。

      中崎委員 “次に引揚に関する問題なのでございます。先ほど質問がありましたが、まず賠償の請求権をお互いに放棄しておることについてであります。これはお互いに金額がいくらになるという程度までは話し合いがなかった、これはわかる、わかるのですが、これは個人の財産も含めてでありましょうから、日本の国民にとっては、幾ら放棄されたのかは、きわめて重大な問題であります。であるから、政府の側においては放棄せしめられた個人財産が一体どの程度であったかということを、この際明らかにしてもらいたいと思うのであります。”

      小林国務大臣 “折角のお尋ねでありますが、この問題は大蔵省で調査をいたしておる問題でございますから、大蔵省の方と十分協議いたしまして、後刻ご返事いたしたいと思います。

 その後政府から後刻の回答がなされたのであれば、その内容を教えていただきたい。このように批准国会の会議録のなかにはシベリア抑留の文字はなく、また「日ソ共同宣言」の条文中にも一文字も使っていないのである。そのころの新聞その他マスコミ、学会などおよそ言論を業とされる方々の沈黙は理解しがたい。国内は一瞬痴呆症にでも冒されたのか、または一服盛られたか、とまれ日本民族最大の屈辱事件は闇から闇へ、以後このままで歴史の暗部へ葬り去られようとしている。本訴に及んだ趣旨の一つはかかる不条理をただし、シベリア抑留の真実を広く国民に知って貰いたい、正当な歴史的評価を与えて頂きたいとの願いである。  (甲第47号証)

2)   昭和31年11月30日、参議院外務農林水産委員会において、千田 正議員から“もし請求権を放棄したものだとすれば、国内的に何とか補償しなければならないのは当然であります。総理大臣のご所信を” と問われ、総理大臣鳩山一郎は “国内問題として考慮したい“ と締めくくって批准国会を終えている。  (甲第44号証)

3)   鳩山首相は昭和31年10月2日調印のため出発するにあたり以下の談話を発表した。“日ソ交渉の理由第3は抑留の是非や責任論などの理屈を超越して、一刻も早くこれら犠牲者たちの帰還の実現を図ることこそ政治家の任務であると思います。”

 それはそれで結構なことだが、抑留の是非や責任論は理屈であるのか、簡単に超越されてはたまらない。大事な権利を主張せず、請求もせず、朔北の野に眠る犠牲の数が4千弱か数万かもお構いなしに放棄するとは何事か。未帰還者のためというなら“和平よりも何よりも先ず抑留している捕虜を解放することが先決だ″と力説して一歩も引かず、見事成功したドイツの例に倣えば何ほどのことでもないはずである。1955年9月9日(日ソ共同宣言の前年)アデナゥアードイツ首相はモスクワへ乗り込み、国交回復問題を前提として抑留者の解放を要求し、フルシチョフらとの激論の末、全員の釈放を勝ち取り、日本捕虜よりも一年早く帰国させた。その後クレムリンを訪れた日本の議員団に対し、フルシチョフが言った言葉は深い意味を持っている。 “アデナゥアーがみせた決意と熱意を日本政府がみせるならば、戦犯釈放の問題は四、五日で解決するだろう” と。

7、  サンフランシスコ条約との関連

 「日ソ共同宣言」第6項の相互放棄について外務省条約局長の答弁がある。1956年11月30日、参議院外務農林水産委員会。

 ○千田 正委員 “このたびの日ソ共同宣言に至っては日本国民の財産権を放棄する。これは日本の憲法の第29条から言えば重大な問題であると思いますので、この一点を質したいと思うのであります。”

 ○下田武三政府委員 “共同宣言には財産の放棄ということは少しでも書いていないのでございます。つまり請求権と申しますか、英語で言うクレイムを放棄するという建前になっております。またこの考え方はサンフランシスコ条約でもすでにとっておるわけでございまして、その桑港条約のみならず戦争の結末をつける平和条約あるいは類似の文章においては遺憾ながら敗戦国側は戦争に基づいて起こりました種々の請求権を放棄させられるという先例になっておりますので、日本側も今回は
まことにやむを得ない次第に相なっておるということでございます。”

 なるほど我国はすべての請求権を放棄させられている。しかし故なくよその国に押し入って長らく占領していた我国に請求権に値するものが一部を除いてあっただろうか。逆に日本のために甚大な戦争被害を受けた国々は、日本の窮状を哀れんで実に寛大で、殆どが請求権を放棄してくれている。ソ連のような長期抑留の不法をやった非情な国は他になく、賠償を最も多く先取りしたのはソ連であって、これは特殊事情である。独立のためやむを得ず締結したサ条約の請求権放棄と、もはや戦後ではないと高らかに宣言した年とを同列に論じるのは公平を欠く。独立後自由にものの伝える時代にソ連のみトクをした特殊事情をとがめ、責任を追及してどこが悪いか。いささかもサ条約に拘束されるゆわれはなく、あべこべに請求権まで無条件で放棄するとは何事か。  (甲第49号証)

8、以下二重基準の釈明を求める。

1)   被告国は第6項について次の異なった見解がある。“「日ソ共同宣言」の請求権放棄については、国家自身の請求権を除けば、所謂外交保護権の放棄であって、日本国民が個人として有する請求権を放棄したものではない。(相沢英之質問主意書に対する総理大臣代理、小渕恵三の答弁書、平成9.11.28) また個人の請求権を行使する方法は の質問に対し、 “国際法上の個人の請求権というのはないわけでございます。と申しますのは、個人は国際法上の主体には原則としてなりえない。従いまして個人の請求権を放棄したものではないという趣旨はあくまでもソ連の国内の法制度上における個人の請求権までも放棄したものではない。個人が請求権を行使するというなら、それはソ連の国内法上の制度に従った請求権を行使することにならざるを得ないと考えます。” (1991.3.26.参議院内閣委員会で外務省高橋有終の答弁) と主張するかと思えば次のようなことも言う。昭和55年4月1日参議院予算委員会での塩出啓典委員の “放棄した請求権の中にシベリア抑留の請求権は含まれているのか” の質問に対し、外務省条約局法規課長鈴木勝也は次のとおり答えている。 “含まれております。放棄したのは文字通りすべての請求権が含まれていると考えます。” 前述した政府委員下田武三の発言によれば “遺憾ながら敗戦国側は戦争に基づいて起こりました種々の請求権を放棄させられるという先例になっており・・・・” また「日ソ共同宣言」第6項は、“他方の国、その団体及び国民に対するすべての請求権を相互に放棄する。” と書かれている。正しくはどちらであるのか明確な返答を求める。

2)   同じく二重基準について

 戦後韓国をはじめアジアの各地から補償要求を提訴された我国は、それら殆どの訴えを 退けているが、その言い分は “賠償は国と国との間で完全かつ最終的に決着している。 ” というものである。このように個人からの訴えを受けたときには国と国での解決済を言  い立てて棄却し、反面シベリア捕虜には “いや国と国ではない、個人でソ連に訴えよ”  という。あるときには右といい、あるときには左というが、我国の正義は二本の物指しがい るのであろうか、教えて貰いたい。

3)   シベリア抑留者は国際法上その捕虜としての待遇を受ける権利を失うものではなくまた国内的には捕虜ではないとは前項の総理大臣代理小渕恵三の答弁書の見解であるが、このような二重基準も世界文明諸国に例を見ない現象である。被告国は捕虜であると認める以上、国際人道法の拘束をうけるものであり、また捕虜は同時に軍人という本国の公務員でもあり、抑留中は二重の資格を有する身分である。われわれは一般戦争被害者ではなく国際人道法の拘束を受ける特別戦争被害者である。

9、高島有終答弁で“国際法上の個人の請求権と言うのはないわけでございます” があるが、「捕虜の待遇に関する1949.8.12.のジュネーブ第3条約 (以下49ジュネーブ条約という)」は立法の趣旨からあくまで捕虜個人の権利のためのものであって国のためのものではなく、双方の国家権力からどうしてそれを守るかの精神に終始している。国際法上の捕虜個人の請求権は確立しているのであり、しかも補償の義務を果たさねばならぬ者は他ならぬ被告国自身である。

10、それにしても、この答弁の中から悲運の同胞を思いやる心の一片でも感じる人があるだろうか。個人々々というが軍という団体の責任はどのように執るつもりであるのか、われわれは個人でソ連へ行ったのではない。“敵の管理下に入れ、逆らう者は厳罰に処す” との勅命に従って軍隊として連れて行かれたものである。その軍隊、国家としての責任はいつの間にか陰に隠され、まるで他人の災難を冷ややかな目で見下す答弁ではあるまいか。

11) また“君たち個人の請求権まで放棄した覚えはないのだから訴えるならロシアの裁判所へ行けばよい。ただし外交保護権がないのでなんのお世話も出来ないが・・・・” と親切に教えている。しかし被告国はこれらのやり取りで原告らが持つ請求権の存在そのものを認めたことになる。請求権とは未払い賃金のことであり、この労働対価は支払わねばならないのである。その支払義務は抑留国、所属国の連帯責任で、、われわれは第1順位に従って所属国から受け取るのが国際人道法の基本理念である。

第2 日ソ共同宣言は国際人道法に違反しているから無効である。

1、憲法第98条2項は次のとおりうたっている。“日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする” (甲第52号証)

2、  原告らが国際法上の捕虜ではないという者は殆どいないであろうが、また稀にあったとしても、以下小渕恵三氏の答弁書を知れば納得されることと思われる。“旧ソ連邦の権力下に入った我国軍人、軍属が国際法上その捕虜としての待遇を受ける権利を失うものではない” 原告たちはまぎれもなく捕虜の地位と権利を持つもので、被告国のいう一般戦争被害者とは法的に異なる資格を有するものである。つまり捕虜とは国際法上他と厳密に区分された法律上の地位なのである。 (甲第50号証)

3、  我国が1953.10.21.に加入した49ジュネーブ条約第7条(権利放棄の禁止)は次のとおりである。 “捕虜はいかなる場合でも、この条約及び前条に掲げる特別協定があるときは、その協定により保障される権利を部分的にも、又は全面的にも放棄することはできない。” 原告はこの条項の趣旨に従い誠実に遵守する必要上本訴に及んでいる次第である。 (甲第53号証)

4、  捕虜に関する国際人道法の立法趣旨は不幸にして敵の管理下に落ちた軍人をいかに苛烈な戦争とはいえ個人としての人権を保護し、得たる権利の実効性を国際的に保障しよう、お互いに捕虜の身分は尊重されねばならないとするものである。中でも “労働に対しては正当な対価が支払わねばならない” とし、資本主義国たると社会主義国たるとを問わず、捕虜が労働によって相応の労働賃金を受け取るのは国際社会の基本的原則である。

5、  労賃は抑留国、所属国のいづれかがどのように支払うかは清算手段上のことであり、両国の共同責任であるが、いづれにせよ捕虜の手に確実に支払われねばならない。49ジュネーブ条約第66条末文によれば、“捕虜が属する国は捕虜たる身分が終了した時に抑留国から捕虜に支払うべき貸方勘定を当該捕虜に対して決済する責任を負う。” とあるが、被告国は本日に至るもこの義務を果たそうとせず、それに代わる補償も一切したことはない。(甲第54号証)

6、  被告国は労賃の支払いも何一つ実行せず、ソ連が冒した人道問題にも不問のまま「日ソ共同宣言」を締結したが、これは49ジュネーブ条約第6項に違反している。“・・・・明文で規定する協定のほか、別個に規定を設けることを適当と認める。いかなる特別協定も、この条約で定める捕虜の地位に不利な影響を及ぼし、又はこの条約で捕虜に与える権利を制限するものであってはならない。” (甲第53号証)

7、  長い時を重ねて積み上げられた慣習国際法の中で確立した捕虜の権利はユース、コーゲンス(強行規範)としての性格を持つものであり、この権利に抵触するような条約規定は無効とされるべきである。随って49ジュネーブ条約加入以後に締結された「日ソ共同宣言」は無効である。

8、  日ロ両国はシベリア抑留問題については一から出直し、今度こそ国際人道法に則った公正なる措置を講ずべきである。

9、   宣言の無効などそのようなみっともない事ができるか とのお考えなら49ジュネーブ条約第6条後文を参考にされるが良い。 “捕虜はこの条約の適用を受ける間は、前記の協定の利益を引き続き享有する。但しそれらの協定に反対の明文規定がある場合又は紛争当事国の一方若しくは他方が捕虜について一層有利な措置を執った場合は、この限りではない。  (甲第53号証)

第3 むすび

 以上述べたように「日ソ共同宣言」のシベリア抑留問題処理については、被告国は極めて不実不誠意な対応に終始し、相手におもねって強制労役その他不法行為の責任を咎めることなく談合し、何らの成果も挙げることなく終わってしまった。それのみか事件の真実を明らかにしようともせず、闇から闇へと揉み消しを図ったことは背任、背信のきわみであり,シベリア捕虜多年の願いを裏切り、国と民族の誇りを失墜したる罪状は売国奴の所業である。被告国はいつまで真実を否定し続けるつもりであるのか。このまま歴史を欺きおうせるとでも思うのか。エリツィン、橋本声明の “正義と人権のもとで20世紀のことは20世紀に・・・・” を本当にやって貰いたい、その誠意が今問われているのだ。原告らに国の恩恵は不要である。ただ正当なる権利である労働対価等の支払いを国に強く求めるものである。現総理はかって “富裕有徳の国でありたい” と言われたが、失礼ながら片腹痛い。シベリア抑留をこのまま踏み倒したでは徳義の二字が泣こう、道義と人道に立った反省を求める。

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