第1章

  2、  大阪地裁1009法廷

  <その1> 訴状とその周辺                    1999.4.1~       
           
訴状 原告 松本 宏への書簡 1
「シベリア抑留問裁判について」 保阪正康  被告答弁書・第1準備書面

                  訴状     

  平成11年4月1日     大阪地方裁判所 御中

             事件名            謝罪公告並びに損害賠償請求事件

             訴訟物の価格        金、15、059,000円

             貼用印紙額         金、    78,600円

 請求の趣旨

原告は被告に対し次の事を請求する。

1、  被告は官報に別紙1記載内容の謝罪公告を掲載せよ。

2、  被告は原告夫々に対し各三百万円及びこれらに対する本訴状送達の翌日より    各支払済みにいたるまでいずれも年五分の割合による金員を支払え。

3、  訴訟費用は被告の負担とする。

との判決を求める。

 請求の原因

第1 原告の軍歴

(1)松本 宏 (大正6年4月1日生)

昭和14年3月京大法学部を卒業後三菱商事大連支店に勤務その後昭和19年9月東京に於いて召集され北満孫呉の電信第8連隊に入隊、翌1月初旬経理部幹部候補生に採用、その後第4軍経理部の教育を経て甲種幹部候補生、4月電信第42連隊に転属、昭和20年8月新京経理学校にて教育中ソ連進攻。8月中旬通化に向け行軍中敗戦に遭遇、同下旬吉林の収容所に収容された。その時の身分は経理部幹部候補生。(軍曹の階級)9月13日吉林発黒河経由入ソ10月3日チタ、ドーク着各種の雑役に従事、翌21年1月28日チタ駅構内鉄道工場(チタ第18分所)にて農場作業、旋盤工、翌年2月20日宮本氏の主計を引き継ぎ、22年10月帰還のため出発するもナホトカで止められ近郊山中で伐採に従事、昭和23年5月9日頃舞鶴着、復員帰郷。

(2)木谷丈老 (大正8年2月4日生)

昭和14年12月現役兵として歩兵第11連隊に入隊、翌15年6月衛生兵として中支に出征し爾後各地を転戦昭和20年8月14日衛生伍長として新京着、その後敗戦にともないソ連軍に投降。同9月16日四平街出発ソ連に入り11月20日カラカンダ収容所着炭鉱作業に従事、同24年11月24日ナホトカ出港。同27日舞鶴港着、復員帰郷。

(3)池田幸一 (大正10年1月23日生)

昭和16年12月12月、召集により京都伏見9連隊入隊、17年3月召集解除、20年8月1日召集新京富岳37324部隊入隊、8月22日新京大同学院にてソ連軍に投降、9月12日新京出発、10月19日アングレン着、21年5月16日河川工事にてハナバートへ、21年9月再びアングレンに帰る。23年9月11日明優丸にて帰還、最終階級陸軍2等兵。

(4)森本繁造 (大正11年2月21日生)

昭和18年1月現役兵として広島に集合北朝鮮羅南に入隊、同4月北満愛喗第6国境守備隊朝永地区に転属、20年6月新京経理学校下士官候補者隊入校、ソ連進攻のため原隊復帰を命ぜられハルピン第4軍管理部、ソ連に投降、牡丹江にて待機。11月初旬タイセット地区ザニューベルスカヤ68キロ収容所、鉄道建設作業に従事、後数箇所転々。274キロ収容所にて民主化運動生活部長に任ぜらる。昭和24年8月28日舞鶴着復員帰京、軍隊最終階級上等兵。

(5)加藤木敏雄 (大正12年8月17日生)

昭和16年7月相模原陸軍通信学校卒業、同8月牡丹江電信6連隊に転属同11月任伍長、軍曹を経て昭和19年12月任曹長、関東軍第2通信隊、敗戦。20年8月18日間島市収容所に収容、同9月ポセット港まで行軍、同10月シベリアホルモリー201収容所に収容、3年間建築に従事、昭和23年12月1日名優丸にて3日舞鶴港着復員。

 第2、シベリア抑留の概要

昭和20年8月15日日本国の太平洋戦争無条件降伏に際し関東軍等将兵60万余(関東軍等将兵とは北鮮、満州、樺太、千島地区の将兵を言う)は関東軍総司令官の命令によりソ連軍に降伏した。その後ソ連軍によりシベリア各地等ソ連領土内に連行されて強制労働に従事され、戦犯容疑者とされたものを除き昭和24年末を概ね最終として内地に帰還したが、その間に不幸にして死したるもの6万余といわれ、一般にシベリア抑留と呼ばれている。

そしてこの抑留は連合国最高司令官マックアーサー元帥(以下マ元帥という)や連合各国また我国から何ら異議、抗議される事無く世界黙認の中で大量拉致された事件である。この抑留のため原告らの蒙った精神的肉体的な苦難は耐え難いもので、これらは詳記せずとも周知の事実である。

即ちシベリア抑留は連合国占領時代の真っ只中に起きた重大事件であるから連合軍の占領という事実を抜きにしてはこの問題の解決はないといえる。

昭和20年8月15日米国、英国、ソ連及び中国は日本国のポツダム宣言受諾及び無条件降伏を受け入れるに際し日本占領の窓口一本化をはかりマ元帥を連合国最高司令官に任命、降伏受領及び占領に当たらせた。

 シベリア抑留は連合国の占領中に起こった事件であるが今までのシベリア抑留の研究者の中でこの事に触れた人が皆無であるのは全く不思議なことである。

第3 請求の原因

1、閣議においてソ連抑留を承認した事実に基づき政府に請求する原因

政府は昭和20年10月16日閣議でソ連抑留を承認した。

 原告の一人松本 宏は満州国吉林の収容所から9月10月にかけてシベリアに拉致されたがその時期を含め抑留時において米国その他連合国から何の異議もなく、また妨害もなく実施され、且つ日本からも今に至るまで異議を申し立てた事実もなく、これは何か各国が合意の上で行ったのではないかとの疑いを持つに至った。

 そこで松本 宏が当時の新聞にはなんと書いてあるかと思い新聞を探した処朝日新聞の縮刷版があるのを知り平成6年6月19日に購入した途端昭和20年10月17日新聞を発見し前日の閣議に於いてソ連抑留が付議され承認した事を発見した。

 即ちその新聞の第1面に次の通りの表題で記されていた。

「陸海両省、12月に第1/第2復員省に改組。外地部隊復員完了に4ヵ年」

 即ち下村陸相が先ず連合国から命令された陸海軍の廃止に伴う後釜としての復員省の設立予定及び陸海軍の段階的縮小課程を報告すると共に外地部隊の復員予定の中で関東軍について次の通り報告している。

「北鮮、満州、樺太、千島地区 87万7千・・・・これはソ連との折衝によるが南鮮に続いて許可されるとすれば大体23年8月ごろに終了する見込みである。」

 何ということであろうか、シベリア抑留に遭遇以来53年余の間夢にも考えていなかった、あの降伏文書提出の翌月シベリア抑留が閣議に報告され、しかも政府がそれを承認したとのこと、それを今まで当の政府が黙っていた、このようなことが世にあっても良いことなのか将に晴天の霹靂であった。

 私は慌ててシベリア時代の友人に聞いてみたが誰も知らないという。更にマスコミ、作家の方々に聞いてみたが何れも口を貝の如く閉じて無言であった。当時朝日新聞と共に在京5紙といわれた毎日、読売報知、日本産業経済(現在の日経の前身)及び東京新聞の各社に同日付けの紙面を求めた結果、ほぼ同様の報道がなされている事を知った。

 更に平成8年2月原告の一人木谷丈老は国会図書館に於いてその閣議に下村陸相から報告された陸軍省の閣議報告を発見した。この閣議報告は「陸軍部隊の復員予定について」と名付けられ、その存在場所、陸軍の特殊用語、書き方、用紙等により事実のものと認められる。この文書によれば陸海軍に関する処理は陸海軍大臣に委任されていて実際には下村陸軍大臣より閣議に報告され何の異議もなく政府から新聞発表されたがこの事実は閣議で承認されたことを意味する。即ち下村陸軍大臣はマ元帥より命令を受けて陸海軍を解体し復員省にするまでの段階的縮小計画と共に内地部隊の復員状態を報告したが、外地部隊の復員予定については大体素直に期日を示しているが満州、北鮮、樺太、千島地区即ち関東軍等将兵に対しては「南鮮に続いて復員が認められるとして云々」と特別な書き方をしている。この記載は「ソ連の認可があれば23年8月頃だが、無ければいつになるか判らない」とその成否はソ連軍にあるということである。

 つまり関東軍等将兵は既にソ連軍の管理に移され、その復員にはソ連軍の認可(許可)を要するとの意味であり当時満州に進駐していたソ連軍に抑留されることは当然ソ連領土たるシベリア等に連行される運命にある事は言うまでもない。

 そこで若し閣議に対しこのようなことが報告されたら如何になるであろうか。先ず閣僚にとっては我が子があの零下50度の国、恐ろしい国、何をされるか分からない国に連れて行かれるような非常事態である。通常ならば「何故抑留されるのか」「ポツダム宣言違反の疑いがある」「その期間はいつまでか」「その間の命は保証されるのか」「食料衣料は」の言葉が出るはずであり、更にこの経過について直ちに当のシベリア抑留者に伝えるべくマ元帥と交渉すべきであった。若し伝えられれば最初はガッカリする人はいても抑留の経緯が判り、3年ぐらいすれば帰れると精神的安定を得て持ち直し最初の冬の死者3~4万のうち半分以上は助かったであろうと思われる。とにかく最初の冬は精神的に参り亡くなった人が多かったのである。

 更に最高の権限を持つマ元帥のことだから抑留は取り止めとはならないにしても待遇は改善され我々の抑留生活も数々のシベリア抑留記に記された如き「シベリアエレジー」に大きな変化が出たであろう。

 しかし日本の閣僚は当時ものを言えば自分が戦犯になるにではないかと考えたのか黙って見過ごした。そして閣議には何の意見も出ず60万の兵隊を無条件にソ連に引き渡すことを承認したのである。

 小渕恵三氏は相沢代議士の質問に対し平成9年11月28日付けの答弁書に於いて「シベリア抑留はポツダム宣言違反」と言い切っているのである。現在の総理大臣が今になってポツダム宣言違反と言うのであれば今からでも遅くはない、米国政府に対し申し入れてその見解を取って貰いたい。

 シベリア抑留は今でも20万程度は生き残っているはずである。抑留の責任と措置がハッキリするならば長年のしこりも消え、先に逝った戦友にも話して聞かせる事が出来るであろう。

この閣議とマ元帥との関係

 当時日本の新聞は米軍の事前検閲を受けており閣議の内容をこのように詳細を報道したことは一度もない。それだけ重要な事であったに違いない。マ元帥の占領に関する権力については9月22日に公表された「米国の初期の対日政策」のうちの連合国の権力に於いて次の通り示されている。

 「究極目的達成のため日本本土は軍事占領され、その間日本の主権は連合国司令官に隷属し、同司令官は日本政府機構及び人事の変更権乃至直接日本に対し命令する権利を保留す・・・・」即ちマ元帥は日本の主権の直接の当事者であり日本政府の機構人事から日本国民に対する直接の支配権に至るまでのすべての権利を掌握し、そのために日本の最高機関である内閣に対しては直接管理していたと見られる。

 更にこの閣議に添付の昭和20年10月2日付け閣議決定には「陸海軍の廃止(名称改訂の件を含む、以下同じ)に関してはなるべく早期に之を行う方針の下に「マ」司令部に対し我が方に於ける軍関係終戦業務進捗の状況及び今後の見透し等を説明しその承認を得て之を決定する」 と記されている。つまり陸海軍等に関する事項は総てマ司令部(GHQ)に状況を説明しその承認を得てから決定していた。即ち陸海軍のことはGHQが総ての権力を握っていた、シベリア抑留も同じであったがマ元帥はそうであっても国民に知らしむべく閣議にかけさせたに違いないと私は考える。閣議はしかし何も言わずに通して新聞発表したが肝心の国民に対しては何も説明しなかった。更に閣議報告には陸軍大臣が自ら「長期抑留者即ちシベリア抑留者には厚く補償すべき旨」を記してあるにも関わらず閣議は何も顧慮しなかった。

この閣議が承認したことは法律違反であるから補償を請求する。

以上の通り日本政府が国民をその同意を得ずしてソ連に引渡し強制労働に従事させた結果大きな損害を生じたことは憲法第18条その他の法律に違反し又該当することは明らかであるからその条文を述べる。

1)憲法第18条「奴隷的拘束及び苦役からの自由」に違反する。

 憲法の前文に於いて国民主権を記している我が国は国民に対し「奴隷的拘束及び苦役からの自由」を与えておきながら一方に於いて政府自ら国民を「奴隷的境遇」に追い込む事は政府自ら自分の国自体に反逆する事であり許すことは出来ない。

 又そのような法律がないから何も出来ないというのであれば、憲法の前文はそのままで刑法に「国家が国民を奴隷的境遇に陥れた場合は首相その他の責任者を死刑または無期懲役に処す」という規定を作れというのであろうか。

2)憲法第17条「国及び公共団体の賠償責任」及び国家賠償法第1条「公務員の不法行為と賠償責任」に該当する。

3)民法第709条「不法行為と効果」に該当する。

2、天皇の命令に従って抑留された事に基づく原因

天皇の命令に従って抑留された。

 関東軍等将兵は敗戦後天皇の命令に基づく関東軍司令官の命令―天皇の命令と同じーによりソ連に投降した。そして9月2日日本国は降伏文書提出後マ元帥の指示に基づき「一般命令第1号(陸海軍)」が発せられると共に降伏文書と一般命令を守るべしという「詔書」が発表せられたのは証拠の昭和20年9月3日の朝日新聞のとおりである。

 その一般命令でお前たちはソビエト軍最高指揮官に降伏すべし・・・・と命令され、本令又は爾後の命令服従に遅滞あり、又は服従せざるとき・・・・は連合国軍事当局及び日本政府は厳罰を以って之に臨むべしとの大御心を素直に承詔必謹したばかりにシベリア抑留に遭遇し、心身ともに極限の苦しみを経験させられた。半面この命令を守らず脱走した者は概ね早く母国へ帰り有利な再出発のスタートを切ったが、命令に従った者がソンをし、背いた者がトクをして不問に付されるとは、これでは世の示しがつかぬではないか。

 兵士のバイブルであった戦陣訓の第3「軍規」に依れば 「皇軍軍規の真髄は畏くも大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高なる精神に存すー中略―特に戦陣は、服従の精神実践の極致を発揮すべき処とす。死生困苦の間に処し、命令一下欣然として死地に投じ、黙々として献身服行の実を挙ぐるもの実に我が軍人の精華なり。」とされている。而してその命令に従わなかった場合は敵前ならば死刑その他の場合はそれに次ぐ重刑に処せられた。その後命令の変更、又慰労等が出たとは聞かぬが、そうであれば命令と原告等の関係は降伏から抑留と未だに続いている筈である。

 軍隊は国民を一片の赤紙で招集し、死地に投ずる強い権力を持っているのだから最後まで面倒を見るのが当然であり、敗戦に際し国民である関東軍将兵を勝者よりの要求に屈して仇敵の手に渡し、しかもその後何の面倒も見ないとは如何なる国であろうか。我々は天皇の命によりシベリアで働いた報酬を請求する。

 若ししからずと言うのであれば次のことを明確にせられたい。即ち天皇の命により召集を受け関東軍等に入隊したものの最後の運命は如何になったか、もっと具体的に言えば10月16日の閣議報告によれば関東軍等将兵の数は87万7千人となっているがシベリア抑留は60万人余といわれておるのでこの差約27万7千人は如何になったのか具体的に発表願いたい。

天皇の命令を守らず自由行動をした場合如何になったか。

 今まで天皇の命令を守ることに重点を置いたが若し守らなかったなら如何なる事態になったかを考えてみる。即ち60万余の軍隊はそれぞれ無条件にバラバラとなり或いは日本独立軍として蟠拠するものあり、任意集団となるものあり、個人集団となるものあり又は単なる個人となり、何れも武器弾薬を持っているのだからどのような混乱に陥るか全く判らない。居留民はおろか開拓団の人々や更に現地人その他を巻き込み旋風のように荒しまわったであろう、結果何万人の損害が出るか全くわからない。勿論前面平定までには10年以上も掛かると思うが、結果その影響はひとり満州に止まらず日本の占領にまで及びまた日本は直接占領となり結果日本国の存立が許されたであろうか、また内地家族の心配は如何なのか全くわからない。このように見れば我々が天皇の命令に従ったことは国の存立に寄与し国民を救い、結局国及び国民の救世主になったであろう。

 また当時天皇の命令は日本国家の最高の命令であったからそれに従ったらシベリア抑留のような運命になった。これは遊び事ではない、今後非常の場合国民は国の命令に従うべきか、従わなくてもよいのか、明白な回答を求める。

3、「シベリア抑留」はソ連に対しての労役賠償であった事を認め、原告らが蒙った損害相応の補償と謝罪を請求する。

原告らをソ連に引き渡した責任

  「シベリア抑留」を引き起こした張本人はスターリンであり、国際法やポツダム宣言第9項  に示された “日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後、各自ノ家庭ニ復帰シ平和  的且生産的生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ” を無視して強引に拉致したものである  が、反面唯々諾々と原告らを労役に提供したのは我国である。

1)戦争の末期、一日も早い平和を願って我国がその仲介をあろうことかソ連に頼もうとしたのが世に言う近衛特使問題で、その時準備した「平和交渉の要綱」の条件第1は、“国体の護持は絶対にして、一歩も譲らざること” であり、第3のロに “海外にある軍隊は現地に於いて復員し、内地に帰還せしむることに努めるもやむを得ざれば、当分その若干を現地に残留せしむることに同意す。” またその解説として、“若干を現地に残留とは、老年時兵は帰国せしめ弱年次兵は一時労務に服せしむること、等を含むものとす” そして第4の賠償及びその他のイに “賠償として、一部の労力を提供することには同意す。” としている。国体護持のためには同胞を賠償労役に差し出すこともやむを得ないと、この時期この考えが政府中枢の頭の中にあったことは明白である。

2)戦争末期「ポツダム宣言」の受諾をめぐり賛成派の宮内省と外務省、それに反対の陸軍の間で激しい論争があったが、阿南陸相らが恐れたのは武器をなくした関東軍がシベリアへ拉致され、賠償労役に賦役させられる危惧であった。既にドイツ捕虜のシベリア大量労役は広く知られていた処であり、さすがに部下を売るということだけは阿南の良心が許さなかったのである。

 決断のつかぬうち東郷外相が条約局第1課長下田武三に命じて作成させたものに「ポツダム宣言の検討」がある。8月9日付外務調査で「下田調書」と言われている文書だが、その第4款に “・・・・法律的には帝国に対しては独の場合の如く賠償に代わる労働力の提供の意味を以って兵員を敵国内労務のため拉し去る意図なきを示すものと解せられる。” とした。終戦を一日でも早めたいための多分に希望的な解釈で、ここは阿南が言うとおり “最高司令官の権限はソ連軍にも及ぶのかどうか、将兵の拉致、抑留、賦役の危惧ありや無しや。” を確認する作業を怠ったものであり、その後の現実は正反対の方向へ、原告らに苦痛を与えたその責任は重い。

3)1993年7月、ソ連国防省公文書館より公開された「関東軍文書」その他に依れば、国は60万将兵を賠償労役のためソ連にお使い願いたいと差し出していた事が判明した。1995年8月26日、大本営朝枝参謀名の「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」に、“武装解除後ノ軍人ハソ連ノ庇護下ニ満鮮ニ土着セシメテ生活ヲ営ム如クソ連側ニ依頼スルヲ可。満鮮ニ土着スル者ハ日本国籍ヲ離ルルモ支障ナキモノトス” とある。朝枝繁春中佐は当時大本営参謀部第5課の対ソ作戦主任参謀であり、日本首脳の対ソ降伏方針を関東軍に伝達するため8月19日新京に飛来した。21日にはザバイカル軍管区カワーレフ大将、政治部フェデンコ中将に会見し、東京よりの方針を伝えている。その一部が前掲の文書であるが、まさに近衛提案の具体化である。

4)朝枝の提案はソ連への絶好のプレゼントとなり、申し出の二日後の8月23日、スターリンは極東およびシベリアでの労働に肉体的に耐えられる日本人―日本軍軍事捕虜―を50万人選抜しソ連への移送を全軍に命令している。

5)朝枝が携えた方針に対し関東軍司令官以下参謀部も、“全般的ニ同意ナリ” とし「ワシレフスキー元帥に対する報告」なる文書を纏めて8月29日ソ連側に提供している。その中で、“次は軍人の処置であります。之につきましても当然、貴軍において御計画あることと存じまするが、元々満州に生業を有し、家庭を有するもの並びに希望者は満州に止まって貴軍の経営に協力せしめ、その他は逐次内地に帰還せしめられたいと存じます。右帰還までの間に於きましては、極力貴軍の経営に協力する如くお使い願いたいと思います” と申し出ている。文書の名義人は関東軍作戦班長陸軍大佐草地貞吾、文書作成は関東軍参謀陸軍中佐瀬島龍三である。

6)8月25日新京に入ったソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥は関東軍司令官山田乙三大将と会談している。通訳を務めたコワレンコによると “独ソ戦で働き盛りのロシア人男女2千万人を失った。捕虜になった関東軍はソ連領内へ移動し、日ソ両国政府間の取り決めを待つことになるでしょう。” といったに対し関東軍総司令官山田大将は “もし私どもがソ連領内へ移動するような場合には、私が預かっていた将兵が衣食住に不自由しないようにして頂きたい” と要望したという。しかし我が総司令官はポツダム宣言第9項違反の抗議も国際法にもとる非難も、将兵の早期帰還、その時期また待遇等について一言も述べた形跡はない。

7)1995年2月終戦体制などを定めた「ヤルタ協定」5条対独賠償ニーCではドイツの労働力の使用を取り決め、約270万の将兵がソ連に抑留されて賠償労務に賦している。同盟国の敗者である我国が同じ運命をたどるであろうことは当時要職に在る者ならば知らない方が不思議なことで、これらを百も承知の上で原告らを引き渡したのである。

被告が「日ソ共同宣言」に於いてソ連の賠償請求権と相互に放棄した原告らの権利に見合う賠償を請求する。

1)スターリンは停戦直後の9月2日に「対日勝利宣言」を布告しているが、その中で日本侵略者による被害について特別勘定を有すると述べている。その特別勘定とは次の通りである。(ソ連政府財務部)

シベリア出兵による損害・・・・直接損害     618億9200万3500ルーブル

                  間接損害     115億0618万9000ルーブル

日ソ中立条約違反による損害(ノモンハン他)

             水運人民委員会・・・・    6億3699万3750ルーブル

             交通人民委員会・・・・         79万1000ルーブル

             漁業人民委員会・・・・    85億0203万2100ルーブル

         東支鉄道退職金不払い・・・・        480万3000ルーブル

              集計違算・・・・・・・・・   △5億0008万0000ルーブル

                   計        820億4271万2350ルーブル

2)1956年10月19日「日ソ共同宣言」が成立し、その第6項により双方は賠償請求権を放棄した。欲の深い事では定評のあるソ連が至極あっさりと放棄した見返り勘定の大半は60万将兵の苦痛に満ちた労役である。1990年来日し「非は我が方にあり」と告白したA、キリチェンコも次の通り述べている。 “ソ連は対日賠償請求権を放棄し、日本は抑留者の補償を含む請求権を放棄しました。従ってソ連には支払い義務はなく、抑留者は日本政府に請求するしかありません。”

3)被告は外務調書「引揚問題の経過と見透し」に於いて “国際法的に捕獲国が敗戦国の俘虜又は残留者を使用する権利は認められていないのであって、これらに対する賠償支払いの要求は来るべき講和会議の一重要項目となるであろう。” と述べているが、言うこととやることはまるで反対で「日ソ共同宣言」の場に際しても一言の文句も言い出さず、宣言文書に一行の文字もとどめない不得要領の結末に終わっているのである。日ソ交渉という滅多にない機会にどうして「シベリア抑留」を問題にしなかったのか。国際法を無視した暴挙の事実を追求し、強制労働の不法に抗議し、それに見合う責任と解決をどうして堂々と主張しなかったか、これらは怠慢というより敵前逃亡である。

4)第1次ロンドン交渉の始めに我方は国交回復の基礎となる7箇条を提示しているが、驚いたことにシベリア抑留問題はどこにも含まれていないのである。領土問題と並んで最重要課題であるに拘わらずこれは一体どうした事であろうか。話を持ち出したのは逆にソ連の方で、平和条約として12箇条の案件を出し、その第3項、第4項で両国請求権の相互放棄を提案している。之に対して我が方全権の松本俊一は “相互放棄の趣旨については同意見であるが、条文の表現方法についてはこれを留保する“ と早くも本筋で同意している。同意見であるとした相互放棄の我が方貸方勘定はなんであり幾らであるのか、その交渉過程等すべては闇の中である。

5)ここで整理をしておきたい。我々の労役量の総計は数兆円といわれている。いまトクをしているのはソ連と、莫大な賠償を免れた被告、ソンをしているのは抑留者である。一億二千万人口の全員で負担せねばならないソ連への賠償を六十万の抑留者がその労役で支払わされている。

 以上を検証すれば国家賠償法第1条及び憲法第17条、憲法第29条3項、また民法第709条及び人道法により正当な補償を請求する権利を有するものである。

第4 補償金額

 前記の通り原告ら各自の蒙った損害は物質的精神的の両面を含めて計り知れない莫大なものであるが、都合により各自内金請求として一人金三百万円、合計金一千五百万円を請求する。

 上申書

なお官報謝罪公告掲載料は概算金五万九千円である。

別紙 1 

      公告文 

 日本国は、1945(昭和20)年10月16日、閣議によって、関東軍将兵らがソビエト連邦軍に抑留されることを承認した。よって関東軍将兵ならびに満州地区に居住していた市民らは、シベリア各地をはじめ、旧ソ連領内において分散抑留されるに至った。彼らに対して、前期抑留承認の事実を告知ないし連絡することを怠ったことについて、深く反省し、抑留中また帰還後に於いてもその労苦に相応した措置を怠った事に対し陳謝の意を表します。

        日本国総理大臣      ○  〇  〇  ○ 

  旧ソ連領内に昭和20年8月15日の敗戦後、抑留された関東軍将兵及び一般市民並びに旧ソ連領内で抑留されて死亡するに至った方の遺族 各位殿

  原告 松本 宏への書簡 1               1999.4.5.



左より・・・・原告メンバー、加藤木、木谷、松本、森本、池田 (1999.4.1. 大阪地裁前)
          

 大阪地裁を訪問する記念すべき第一歩を貴方の誕生日にしたのは成功でした。

法廷をめぐる垣根のぼけの花が満開で、それに例年より早い桜もほぼ咲き揃い、青空の下 サクラサクの良いスタートとなりました。

 遠路の加藤木さんも前日より拙宅へ、折悪しく家内が入院中で(アンコールワットで貰った肝炎が出たのですが、幸い近く退院できそうです。)お構いなしの一泊でしたが、時間にはゆっくり入廷できました。

 それにしても実にあっけない、僅か5分で閉廷。まぁ初日は訴状を出すだけの儀式で本番は真面目にやってくれるのでしょうが・・・・・ ところが0さんのお話によれば口頭弁論とは名前だけ、すべては準備書面という書いたものでの論争となり、公判は次の日程を決めるだけでやはり5分ぐらいで終わるのだそうです。我々はどうやらテレビドラマの見過ぎのようで、期待するほどに面白い法廷風景にはならないようですよ。なにしろ近年は訴事過剰で裁判官はふらふら、審議も総体に薄味となり、がぶり四つの相撲が取れるのかどうか少々心配です。小野洋一裁判長は良心派とか、評判はそう悪くはないようだ とはOさんの弁。傍聴は17名 殆どが私の戦友ですが、次回は木谷さんの奈良からも動員したい。

 残念でならないのはメディアの無関心です。事前に司法記者室を回り12社漏らさず資料を渡して充分挨拶はしたつもりが全くの不発です。取材もなければ翌日の各紙も沈黙して一行の記事もなし。ことの意外に驚いています。私は「シベリア抑留」が地味で陰気なネタであり、人気がないのは承知でしたが、80過ぎた老人が弁護士なしの貧乏裁判を、よりによって四月馬鹿の日に、その名も竜車に刃向う五匹の蟷螂とは・・・・これなら放っておいても飛びついてくれるはず の読みは甘かった。見事に期待を裏切られましたが、これが世間というものかと反省しきりで、前途の多難を知りました。社会に広く伝える方法を至急考える必要があります。

 なにはともあれ相手がどう反応するか、すべては次回までに届く国の答弁書です。カマキリの旗挙げは千早赤阪の乱のようなもので、これが刺激になり休業中の全抑協に再び火が付かないか.運動は車の両輪です。われわれに並行して立法府に攻勢をかけてほしい、あらゆる運動体との全国的連帯は木谷さんたちベテラン三人の仕事で、貴方からもこの法廷外作戦の大事さについて一声かけてください。

 傍聴17名の中にこの二月結成されたばかりの全抑協大阪府連から参加がありました。会長の河野宏明氏と幹事の平野芳男氏です。ご存知の通り大阪はなんにもしない相沢派で、これを巻き込んで立ち上げたばかり、河野氏は堺の大気汚染反対運動の人で、臨調委員会で瀬島龍三とやり合った逸話の持ち主です。“貴方はハバロフスクのラーゲリでは特別待遇で、毎朝作業に出る僕らを敬礼して見送るだけ、戦前は人殺しの作戦を考え、今は公害を振りまいて僕らを喘息にした” と。すでに100人ほどは集めた模様で、会は出来たもののさて何をするのか、肝心の山形本部が敗訴以来の分裂続きで戦力を失った上、只今はジュネーブの国際人権委員会へ直訴に夢中で、とても政府に噛み付いてくれる余裕もなく開店休業が実相のようです。

 一方相沢派は国の御用組合になりさがり、補償要求を諦めた代わりに軍人恩給の加算という毛ばりを投げてお茶を濁している現状では、カマキリの挙兵が法廷外に風雲を呼ぶことになるかも知れません。それでこそ踏み切った意義があろうというもの、暫くは注意深く変化を待ちましょう。

   

  「シベリア抑留問裁判について           保阪正康

 私は、昭和62年に月間「文芸春秋」誌上で、「瀬島龍三の研究」(現在は「瀬島龍三ー参謀の昭和史」として文春文庫に収録)という稿を書いた。それを機に私は、シベリア抑留問題に深い関心をもつようになった。とくにゴルバチョフ政権になってから、ペレストロイカ路線が進み、ソ連も急速に、かって封印していた事実を次々に明るみにだすようになり、私の関心はさらに高まった。

 ソ連の東洋アカデミーの研究員キリチェンコが来日して、シベリア抑留について「64万人を抑留し、そのうち6万4千人が死亡した」と発表してからは、この問題はまったく新しい段階を迎えた。私自身、1990年、1991年と東京、モスクワでキリチェンコや他の研究者をなんども取材し、「スターリンはなぜ日本人将兵を敗戦後にシベリアに抑留したか」を私なりに理解できるようになった(このことは、年内に刊行する「昭和陸軍の研究」に詳述する予定)。さらにソ連邦が解体し、ソ連の社会主義が崩壊したことにより、この間の事情がしだいに明らかになってきた。

 私は、シベリア抑留問題に関心をもつなかで実に多くの人びとと交流を深めた。シベリア抑留という体験をした人たちは、なぜあのような理不尽な行為が行われたのか、誰もが納得できないでいる。故斉藤六郎氏が組織していた全国抑留者補償協議会(全抑協)は、日本政府の責任を問うとして、強制労働の未払い賃金を日本政府に要求したものの、結局は1997年に最高裁で敗訴が確定したが、しかし、依然として納得できないでいる抑留者も多い。

 私に送ってくる資料のなかに、シベリア抑留を自分なりに納得したいと研究を続けている、松本 宏氏(横浜市在住)がいる。氏は、大正6年4月1日生まれ、京都帝大法学部を卒業後、三菱商事に入社して大連支店に勤務し、その後昭和19年9月に東京で召集され、北満孫呉の電信第8連隊に入隊した。昭和20年8月には新京経理学校で教育中にソ連軍の侵攻を受け、そのあとはシベリア抑留を体験している。抑留から帰国後(昭和23年5月9日舞鶴着)は、三菱商事に勤務し、在職中に税理士試験を通り、退職後は税理士になっている。氏はどのような組織にも属さず、自らの論理と知識でシベリア抑留の法的、政治的根拠を求めていたが、どうしても納得できないとして、自らの考えに賛同する抑留時代の仲間5人とともに「カマキリの会」を結成し、この1999年4月1日に自分たちで国を訴える訴状をつくり、大阪地裁に提出している。これが正式に受理されている。

 75歳から82歳までの、この老人たちは、「カマキリの会」の意味を「枯蟷螂 いまわの際に斧を研ぐ」として、余生をそそぐとしている。このプロセスを私なりに見つめて思うのは「ドン・キホーテのようだが、64万人の抑留者に日本政府は納得する説明をせよ」の一念に燃えていることだ。その点で私は関心をもちつづけたいと思う。

 「昭和史講座2号」 1999,6,26、

                  答弁書

 平成11年5月14日    被告指定代理人   宮武 康 、山田敏雄

第1  請求の趣旨に対する答弁

     原告らの被告に対する請求をいずれも棄却する

     訴訟費用は原告らの負担とする

  との判決を求める。

第2   請求の原因に対する認否及び被告の主張

      調査の上、おって準備する。

                被告第1準備書面

                                  平成11年7月23日
  1、求釈明1)原告らは、本件請求の法的根拠として、国家賠償法1条、憲法17条、憲   法29条3項、民法709条及び人道法により正当な補償を請求する権利を有すると主張  する。

 しかし、憲法17条は、いわゆるプログラム規定であり、同条から、直接金銭請求が根拠づけられるものではないこと、国家賠償法は、権力的作用に基づく場合(国家賠償法1条)と営造物の設置、管理の瑕疵に基づく場合(同法2条)についてのみ定め、民法709条は、私経済作用についてのみ適用されるところ、原告らの、訴状記載の事実主張からすれば、権力的作用に基づく場合と思われ、民法709条の適用はないと考えられること、「人道法」なるものが、いかなる法を意味するのか不明なことからすれば、訴状の請求の趣旨2項記載の金銭請求は、国家賠償法1条1項又は憲法29条3項に基づくものかと思慮するが、そのような理解でよいのか。もし違うのであれば、理由を付して明確にされたい。

2)原告らが請求の基礎として主張する、被告の公務員の不法行為あるいは被告の財産権侵害行為は、被告が、昭和20年10月16日、閣議によって、関東軍将兵らがソビエト連邦軍に抑留されることを承認した行為と特定してよいのか。もし違うのであれば、いかなる時点におけるいかなる行為が原告らの請求の基礎となる被告の不法行為あるいは財産権侵害行為なのかを特定して、その行為を明確にされたい。

2、被告としては、原告らの請求は、その訴訟物、請求原因事実が、必ずしも明確でないので、1項の原告らの釈明を待って、答弁することにしたい。

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