第1章
  2、大阪地裁1009法廷

  <その5> 役務賠償であることの訴え       2000.2.17

             原告第6準備書面         平成12年2月17日

第1、
被告はシベリア抑留がソ連への役務賠償であった事実を認め、今までの冷たい仕打ちを反省してその旨原告らに謝罪すべきである。

1、原告らは敗戦後、国と国民に代わってソ連が要求する莫大な賠償金を身をもって完済し、祖国の窮を救った愛国者であると自らを慰めている。耐えがたい忍苦の日々ではあったが、日本国家存続のため立派にお役に立てたことを誇りに思っている。

2、ところが被告国はそのようには考えず、“シベリア抑留を法的に賠償と認めたことは 一度もない” と他人事のように言う。

3、同じ日本人でありながら、どうしてこうも考え方が違うのか、これらをはっきりさせないことには老兵は死んでも死に切れない。

  どちらの言い分が正しいのか世論に問い、且つ歴史の審判に耐える判断を求める。

第2、 ソ連の賠償請求権とは

1、スターリンは降伏直後の1945年9月3日、全ソ連国民に対して「対日勝利宣言」を布告したが、そのなかで、“彼らは我国に対してもまた甚大な損害を与えている。この故にわれわれは日本に対して特別勘定を有するものである。” と述べている。

2、スターリンのいう特別勘定とは次の通りである。(ソ連政府財務部)(甲第32号証)

 シベリア出兵による直接損害・・・・・・・・・ 618億9200万3500ルーブル

        〃       間接損害・・・・・・・・・・ 115億0618万9000ルーブル

     日ソ中立条約での侵略行為による損害・・ 91億4461万9850ルーブル

                      計        825億4281万2350ルーブル

3、  両国間の勘定は1905年日露講和会議(ポーツマス条約)によって清算されているが 、その後は一度も勘定を合わせたことはない。しかしソ連は対日特別勘定を細大漏らさず記帳し、ツケとして辛抱強く取り立てのチャンスを狙っていたのである。

第3、強制労働の対価はいくらか

1、  スターリンのいう特別勘定の総額は825億ルーブル、当時のレートを68円とすれば5兆6千余億円となる。既に強奪していた在満資産約80億ルーブル(5440億)をそのまま差し引いてもまだ5兆円余の帳尻が残ることになる。強欲では天下に定評があるソ連が、日本への賠償請求権をさらりと気前良く放棄したのはわれわれの労働対価がその肩代わりとなって十二分に回収されていたからに他ならない。

2、  抑留兵士から死亡、病欠を除き、そのうえ営内勤務者など8%を引いてのごく内輪な計算だが、実働労働者は40万人、平均3年6ヶ月として延べ4億6千万労働日となる。仮に日当5千円として2兆3千億、1万円なら4兆6千億円となる。(岩槻泰雄著「シベリア捕虜収容所」より) 因みにかの地のノルマー制労働は我国と違って飢えと死が隣り合わせの耐え難い強制労働であった。

3、  ほぼ5兆円だが、これを60万将兵で割ると一人当たり約800万円強となる。

4、  敗戦時、勢いに乗ったソ連は北海道の北半分を占領しようとした。これらは昭和20年8月15日から22日にわたり、アメリカのトルーマン大統領とスターリンの間で行われた「秘密外交書簡」に明らかだが、幸いアメリカの強い拒否のよってさすがのソ連も手を引いた。それまでは「ベリヤの指令」の通り日本軍捕虜をソ連領に運ぶことはしないはずであったに拘らず、翌8月23日急遽「スターリンの極秘指令」が出て “極東シベリアの環境下での労働に肉体面で適した日本軍捕虜を50万人選別し、ソ連領へ移送せよ” と命じている。

スターリンは北海道占領の野望をトルーマンに蹴られた腹いせと、そこへ関東軍からの “貴軍の経営に兵士をお使い願いたい” の追従が加わってシベリア抑留を決断したとする説は有力である。北海道の北半分に鑑定人はいくらの値を付けるであろうか。取りも直さずそれがそのままシベリア抑留の労働対価である。

  (甲第33号証、甲第34号証、甲第35号証)

5、   スターリン勘定のほぼ9割はシベリア出兵での損害としているが、我国はソ連革命政権誕生の混乱に乗じて東部シベリアを侵略し、1918年から1922年の4ヵ年に渉って占領、相当ひどいことをやっている。また1924年と1925年には賠償の保証を理由に北樺太を占領した。スターリンはこの特別勘定を回収するため、関東軍60万を急遽連行し、役務賠償を先取りしたのである。 (甲第36号証)

第4、      賠償である証拠

  1、シベリア抑留は賠償の二文字から始まったといっても過言ではない。最初は近衛   文麿の「和平交渉の要綱」で、まだ誰一人賠償を口にもしない段階から、早くも “賠償  として一部の労力を提供することには同意す。”として国家としての意思をはっきりと述  べているのである。(甲第24号証) 在満将兵をシベリアへ引き渡し兵士の役務を賠   償のために提供するのは一面都合の良い方法であった。スターリンの怒りを買わない  ためにも、莫大な賠償金を兵士の労役で返してゆけるのも、また船舶不足や食糧難を  思えば尚更のこと、暫くは長いわらじを履いてくれさえすれば全てが好都合、一石三鳥  にも四鳥にもなることである。

  2、戦争末期「ポツダム宣言」の受諾をめぐり賛成派の宮内省と外務省、それに反対の  陸軍の間で激しい論争があったが、阿南陸相らが恐れたのは武器をなくした関東軍が  シベリアへ拉致され、賠償労役に賦役させられる危惧であった。既にドイツ捕虜のシベ  リア大量労役は広く知られていたところであり、さすがに部下を売るということだけは阿  南の良心が許さなかったのである。決断のつかぬうち東郷外相が条約局第1課長下田  武三に命じて作成させたものに「ポツダム宣言の検討」がある。8月9日付外務調書で「  下田調書」といわれている文書だが、その第4款に “・・・・法律的には帝国に対しては  独の場合の如く賠償に代わる労働力の提供の意味を以って兵員を敵国内労務のため  拉し去る意図なきを示すものと解せられる” とした。終戦を一日でも早めたいための   多分に気休め的な解釈であったが、ここは阿南が言うとおり “最高司令官の権限はソ  連軍にも及ぶものであるのかどうか。また将兵の拉致、抑留、賦役の危惧ありやなしや  を確認する作業を怠ったものであり、その後の現実は調書の希望的観測の正反対の  方向へ、結果として原告らに耐え難い苦痛を与えた責任は重い。またこの調書に明ら  かなように、ドイツのごとく賠償に代わる労働力の提供の意味を以って敵国に拉し去ら  れたものであり、それ以外の何ものでもない。  (甲第37号証)

  3, 原告第5準備書面で申し述べた関東軍文書はソ連への拉致を黙許し、“極力貴軍  の経営に協力する如くお使い願いたいと思います” と役務賠償を容認している。

4、  昭和20年10月29日外務省条約局作成「連合国ノ対日要求ノ内容ト其ノ限界(研究素材)」 に依れば、その2 軍事的事項の(ロ)に、“日本国軍隊ノ家庭及平和的生産ヘノ復帰ノ承認” とあり、続いて“賠償ニ代ル労役賦課ノ抑制” と此処にも賠償の文字を散見するが、当時賠償は余程気になる重大事項であったらしい。強制連行を抑制できたか出来ないかは知らず、ここに書かれている「賠償に代わる労役」は現実のものとなった。

5、   群馬県在住の鈴木 繁氏の報告によれば、当時収容されていたチェレンホボの第4ラーゲル収容所長エキゾーモフ上級中尉は捕虜に対し次のように言明している。“ 諸君のソ連における労働は、日本政府が戦争の賠償金としてソ連に支払うための代償である。故に諸君の労働は日本政府が支払うべき賠償金に充当するものであるから、改めてそれ以上日本政府に賠償金を要求することはない” と。この手の話なら珍しいことではなく、ソ連各地でたいがいの者が聞いている。 (甲第38号証)

6、   国の償い果たさんものと / 日毎掘り出す黒ダイヤ / 君の御為はらからのため 

  / 務め果たさん男意気

 これはアングレン第4分所、加藤隆峯作詞の「異国の務め」の一節である。昭和21年ごろに歌われた曲のようであるが、(原田充雄編著「虜囚の詞」より) 炭塵にまみれ酷使に絶えて黙々と石炭を掘る兵士の思いに心を致されたい。この働きに対して “国の償いだと考えたことは一度もない” というのを聞けば兵士たちはどう思うか、いまだ凍土に眠る仲間たちは成仏するだろうか。胸に手を当てて考えて貰いたい。

第5、      抑留国たるソ連の見解

1、  1990年来日し “非は我が方にあり” と告白したA,キリチェンコ(ソ連科学アカデミー東洋学研究所国際協力部長)は次のとおり述べている。“ソ連は対日賠償請求権を放棄し、日本は抑留者の補償を含む請求権を放棄しました。従ってソ連には支払い義務はなく、抑留者は日本政府に請求するしかありません。”

2、   1995年6月19日の朝日新聞によれば、モンゴル公文書管理庁から、抑留された日本軍捕虜に関する文書が多数公表された。それら及び元モンゴル科学アカデミー総裁シレンデブの談話によれば “戦後われわれは日本から蒙った損害に対する賠償を求めた。” またモンゴル政府は捕虜の労働利用を賠償の一つと考えていたのですかの問いに対し、“事実としてそう理解してもらってよい。但し公式にはそのような言い方はしていないし、そう規定していたわけでもない” と答えている。(甲第41号証)

3、   このような相手側の発言を知りながらどうして被告国は異議を言わないのか、我が方は役務賠償を認めたことは一度もないのに、相手国ソ連が示した全く反対の見解に対して何一つ抗議しないのはなぜか。シベリア抑留は抑留した方、された方の二国間で発生した事件である。これが役務賠償であるか否かは国会をはじめ各分野でしばしば論議されいまだ解決をみない問題であるのに、この不作為はひとえに当該二国の責任である。改めて双方の見解をすり合わせ、真実に基づいた定義を示すべきである。

4、   同じシベリアで同じ労役に賦したドイツ兵は帰国後どのような待遇を受けたであろうか。この強制労役はもともと国の担うべき賠償の責めを捕虜が肩代わりしたものとして、ドイツ連邦共和国では逸早く保障措置がとられ、手厚い救済をおこなっている。ドイツ捕虜は国会陳情も裁判も不要で、労働証明書も給養費の請求もいらなかった。これは我国の南方から帰還の捕虜も同様である。日本もドイツも戦後はともに1949年のジュネーブ条約に加盟し、これを遵守する義務を負う。日本も民主国家として当然ドイツと同様に強制抑留者に対する処遇を実施すべきであったが、日本政府はこれを怠った。

  

第6、      国がシベリア抑留の事実や役務賠償を容易に認めない理由。

1、  第5準備書面で述べた通り天皇制護持のため惹起した悲劇であり、また国が国民を売り渡した事実は表沙汰にしたくない。

2、   第5準備書面で述べたとおり、捕虜蔑視、人権無視の前時代性から容易に抜け出せない体質。

3、   ソ連に対して完敗した屈辱感による自虐も重要な要因の一つであろう。あれだけ徹底して赤子の手をねじるように翻弄され、よりによってそんな相手に仲裁を頼んだいまいましさ、こちらの方から “兵士を使役にお使い下されたく” と文書まで差し出した自虐、シベリア抑留は我国にとって末代までの恥であり、出来ることなら何事もなかったことですませたいという日本当局者の自己保身のからくりであったというべきである。

4、   ソ連に対する怨恨

シベリア抑留はソ連が勝手にやった乱暴で、一切の責任は彼にある。なるほど役務賠償の形をし、相手もその気で居るようだが、我が方は意地でもこれは認められない。賠償とすることは更なる屈辱である という頑張りがある。意地も頑張りも結構だが、そのために不利益を受けている犠牲者のことは考えないのであろうか。

5、  赤い帰還者への嫌悪と偏見

労働効率化を求めるソ連側の主導で推進された民主運動は、思想免疫ゼロの純朴な捕虜の間に浸透し、反動狩りなど骨肉相食む二次災害を生じて苦痛を倍加したのは辛い記憶で、同じ境遇にありながら毅然としてソ連に屈しなかったドイツ捕虜に比べ、たしかに見劣りがする。洗脳されたアカにカネまで出す必要なない、この認識も大きな要因の一つであろう。

 この際に申しておきたい。この手の非難ならすべての責任は被告国が受けるべきである。シベリアという極限の地へ何の説明も理由もなく売り渡され、日夜煉獄の業火に身を焼かれ、祖国からの救いの手は何一つなく、身を守る国際法のいろはも教ええられていない兵士が生き延びる術としてやむを得ずソ連に迎合したのを咎める資格があるというのか、祖国日本よりソ国に頼った哀れを笑うは非情である。

第7、役務賠償やむを得ずとした被告国がその後変心し、態度を変えた経緯

われわれは皇軍と称した日本軍の兵士であった。軍隊という組織と兵たる個々は一体となり同じ運命に従う共同体をなしていた。その軍団の兵士らが敗戦によってシベリア抑留という豊葦原瑞穂ノ国始まって以来の屈辱をなめさせられ、切歯扼腕して労役に呻吟したのであったが、やられた祖国もわれわれと同じように腹を立て、われわれに代わって必ず恨みを晴らしてくれる、道義と人道に背いたソ連の不法を咎め謝罪と補償を強く要求してくれるものとばかり思っていた。日ソの友好などこの問題の解決を見ない限り絵に描いた餅であり、これらの諸問題は国が不退転の勇気を以って解決してくれるものとばかり信じていた。その軍と兵士の連帯は半世紀の間に崩れ去り、片や“兵を敵に売っておきながらその後始末もろくにしないとは何事か”と叫び、国は国で“法的根拠もないのに性懲りもなくカネを出せという不逞の輩” と見解はまるで正反対になってしまった。これは月日がたつにつれての国の変心であり、その経緯を明らかにしない限り真実を見ることは出来ない。

1、昭和20年10月16日閣議における陸軍大臣下村 定の報告が国の最初の意思表示である。停戦後の実情と復員の見込みについて報告し、その3の4に “ある者ハ長年月帰還シ得ストセハ此等ニ対スル処遇(精神的実質的共)ニ於イテ低調ナランカ国内社会問題トシテ重大ナル結果ヲ来タスコトアルヘキヲ憂ヒツツアリ” また5に “内地帰還ニ長年月ヲ要スル外地部隊軍人軍属ニ関スル法的措置ニハ特ニ之ガ審議ニ苦慮シツツアル所ニシテ其ニ研究審議ノ主対象モ亦此等ノ点ニ置キ実施シツツアリ” と述べられている。兵の悲運を憂う苦衷のほどがしのばれて陸軍大臣の至情は胸を打つ。事件はこのように純粋な気持ちから始まっているのである。   (甲第1号証)

  2、外務調書「引揚問題の経過と見通し」には “国際法的に捕獲国が敗戦国の俘虜又は残留者を使用する権利は認められていないのであって、これ等に対する賠償支払いの要求は来るべき講和会議の一重要項目となるであろう。” と述べている。また外務調書「在ソ日本人捕虜の処遇と1945年8月12日のジュネーブ条約との関連」があるが、国際法に反して非道な労役を課したソ連を各項に渉り弾劾している。一例をあげれば (10)むすびのなかで “・・・・ソ連の管理下に入ったすべての日本人が当初動物以下の取り扱いをうけ、しかも冷酷無慈悲に酷使され、その結果として膨大な死亡者を出したことは明白である。何人も之を否定し隠蔽することは出来ない。われわれは異郷にあって千載の恨みをのんで死んでいった同胞を心からいたむと同時に、出来るだけ早い機会に国際連合を通じ編成派遣される公正な国際機関によって、逐一現地調査が行われ一切の事実が公表されることが望ましい。・・・・” 書かれたのは敗戦後5年目だが、国はわれわれと同じ気持ちで同じように怒ってくれていたのである。この頼もしい国がいつから腰が砕けたか、同床にありながら異夢を見るようになったのである。  (甲第42号証)

 3、  南方捕虜の帰還に際し労働証明書により兵士に賃金と給養費を支払ったが、ソ連帰還者はこれを所持した者がいなかった。そのため政府はソ連に対し昭和22年3月18日、その発行を要請している。 (甲第43号証) この頃には南方組と同じように支払うつもりであったのに、不法行為が世界中に知れ渡るのを恐れるソ連の不履行によって労働証明書は発行されず、その後もないのを幸いに支払わない方向に固まっていったのである。

4、  戦後の混乱もようやく治まりそのうち次第に事情が判ってくるにつれて政府はシベリア抑留が思うほどには単純なものではなく、財政上大変な事件であることに気が付いた。

@    ソ連側にシベリア出兵以来の莫大な貸方勘定(賠償)があること。

A    その取立てとして労働力を先取りされたのがシベリア抑留であったこと。

B    強制連行されたとき、我国の方からも “賠償にお使い下さい” と働きかけたこと、つまり同胞を売り渡した事実。

C    国際法の理解が進むにつれシベリア抑留の賃金を支払うのはソ連ではなく所属国の日本であることが判ってきたこと。

D    それならいったいいくら必要か、ソロバンを弾いた当事者は仰天したであろう。しかし数兆に及ぶ巨額は取りも直さずわれわれがやらされた労役のひどさ、巨大さであり、何の不思議もない、ことさらに驚くほどの事ではない。

したたかなソ連からカネが取れそうもないと判れば担当諸機関の努力は唯一つ、それなら抑留者への補償を免れる工夫をすることである。役務賠償と認めれば補償は付き物、事実はともかく法的には認めない体制作りを進めたのであろう。

ここにおいて国と兵の一体性は崩壊したが、変心の責任はすべて国にあることは明らかである。

5、  昭和31年11月30日、参議院外務農林水産委員会において、質問千田 正委員、答弁は総理大臣鳩山一郎の応酬がある。

    千田 正君・・・・・あと一点だけ、この問題は将来重大な問題でありますが、ソ連との間にこの問題に対しては今後残されておるのか。これで請求権を放棄したことによって打ち切られるのか、その点はっきりしていただいて、もし請求権を放棄したものだとすれば国内的に何とか補償しなければならないのは当然であります。総理大臣の将来のこの問題に対してのご所信を承っておきたいのであります。

    国務大臣 鳩山一郎君・・・・・こういうような問題はほかにも同様な関係に立っておる事件がありますので、国内問題として考慮したいと思っております。 この時期でも一国の総理がはっきりと考慮を約している。  (甲第44号証)

6、  シベリア抑留に対する国の冷酷な対応はさすがに問題となり、昭和61年5月自民党議員連盟による「被抑留者等に対する特別給付金支給に関する法律案」が纏まったが、その提案理由は次のとおりである。

 “南方地域におきましては抑留国(軍)又はそれに代わって日本政府により被抑留者に対し労働報酬が支払われていますが、シベリア被抑留者に対してはソ連政府はもとより日本政府からも労働報酬は一切支払われた事実はないのであります。”

 南方組には支払い、シベリア組に支払わないのは法の下の平等をうたった憲法14条への違憲であり、その是正をはかるための立法であったが、政府の厚い壁に阻まれて成立を見ることなく終わっている。初期においては兵士の立場に立って考えた祖国が、歳月を経るうちにてこでも払ってなるものかに変化した経緯は以上のとおりである。
       

第8、まとめ

1、   われわれは何のために苦労したのか、それは敵の求める賠償を果たすためであった。世間ではこれを通常役務賠償という。ロシア側もそういっているし世界の人々もこれには同意見であろう。

 ところが被告国だけはそうは言わないで “法的に賠償の一形態として認めたことは一度もない” と白を切るのである。確かに日ソ両国はシベリア抑留の強制労働を賠償なりと合意した事実はない。しかしなぜ合意しようとしないのか。合意をすれば当然被害者への補償問題がついてくる。それが怖さに言うべきことの一つも言わない外交の怯だ、事実をうやむやにしている政治の怠慢、歴史の事実を正視しようとしない偏狭、これらが今日に至るも解決を見ない原因である。シベリア抑留がスターリンの賠償政策によるもので、その先取りとして行われたものである事は何人も否定できない事実である。抑留中の強制労働について賠償か否かに関する国会議事録を証拠として提出する。引き続き被告国の認否を待って更に釈明を求める予定である。

2、シベリア抑留の苦しみはこの年になっても夢寐に現れ、肝が冷えるような恐怖で目が覚める。余命いくばくもない原告の願うところは “役務賠償ご苦労さんでありました。” のひと言を聞きたいのが一念である。

 ソ連への莫大な賠償を国と国民に代わって果たし、銃を持つ手で円スコップをふるい、国のお役に立った関東軍は敗戦時の汚名をそそぎたいのだ。シベリア抑留の功績を正しく歴史のなかに定着して貰いたいのだ。認められたあとに派生する諸問題は別の次元のことと考える。原告らにはもう それらを推進する余力も時間も残っては居ないのである。   
(甲第45号証)

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