第1章
  2、大阪地裁1009法廷

  <その4> 何ひとつしなかった国への訴え           2000.1.10〜

原告第5準備書面 第5回公判ご案内

 
 原告第5準備書面                 平成12年1月21日

第1、はじめに

 私たちの多くは無学で法律やその専門用語を知らない。そのため以下の書面は普段使われている普通の言葉で申し述べたので、そのように承知下され度く。

 第2、被告国は前回の原告第4準備書面で申し述べたとおり、「シベリア抑留」に対しては極めて冷淡で、基本的に何ら有効な手段を講ずることなく無法ソ連のなすがままに屈し、捕虜に対しても何一つ母国の温情を示すことがなかった。この章は特にこれらソフトウェアの側面から立証したい。

一、留守家族へも知らせない

 引き上げ運動の父と称された大木英一氏の述懐によれば、息子がどうやらシベリアへ連れて行かれたらしいと知ったのは翌昭和21年5月2日のことであった。それも満州から逃げて帰った脱走兵からの話とは・・・・(いまいげんじ編著<月に祈る>) 国は留守家族はもとより引き上げ運動のリーダーにさえ何らの情報も伝えていなかったのである。  (甲第19号証)

二、捕虜郵便の開設も民間努力

 これは昭和21年9月11日、狸穴のソ連代表部において右大木英一氏ら10名を前にして当時のソ連代表テレビヤンコの言った言葉である。“・・・・すぐ帰すことは出来ん、その間にシベリアの方や、方々開発せんならんこと仰山ある。だから日本人でもドイツ人の捕虜でも帰すことはでけん。・・・・そこを理解して7年貸してくれ、7年経ったらすっと帰す。” 当時は役所のどこへ行っても議員を捕まえても逃げ回るばかりでラチがあかず、この団体はマックアーサーに嘆願書を出したり、直接ソ連代表部まで乗り込んで直談判をしている。留守家族の一部との郵便が許可されたのもこの談判の成果である。許可書は日本政府外務省を経ずに、ソ連代表部から直接一民間人の大木英一宛にもたらされたのだ。 (いまいげんじ編著<月に祈る>より)   (甲第20号証)

三、一個の慰問袋もこなかった

 オーストラリア駐在の赤十字国際委員会代表から、日本人捕虜への慰問金分配に関し問い合わせがあり、早速日本赤十字の島津忠承氏が当局に指示を仰いだのだが、その答えは次の通りであった。“俘虜になっている者には誠に気の毒であるが、いっさい俘虜を認めることはできない” 「生きて虜囚の辱めを受けず・・・・」の戦陣訓以来、我が軍に原則として捕虜は居ない。居ない者のために気を使う必要は無いといっている。「人命は地球よりも重し」と、これがときには超法規の措置でもやってのける国の同じ口から出た言葉であろうか。我々は好んで捕虜になった訳ではない。降伏して武器を捨てよ。背く者は厳罰に処すと命令され、今回に限り捕虜とは認めないからと、てい良く引き渡したのはどこのどなたであられたか。その舌の根も乾かぬうちのこの言葉はいったいどう言うことであるか。戦争中は “兵隊さんよありがとう、兵隊さんのお陰です” と慰問袋や手紙でおだてておきながら、戦後の後始末のために国民に代わって奴隷のように酷使される兵士に対してこの掌を返す冷酷さは、思い出すたびに血圧があがる。およそ文明国といわれる国々で自国の捕虜に慰問袋の一つも送らなかった国が我国を除いてあっただろうか。特にドイツなど敗戦後不自由の極限にありながら挙国的な救恤をシベリアに送っている。  
(甲第12号証、甲第21号証、甲第22号証)


  四、日本政府は日本軍に捕虜は無いという国策を実施したが、このことは正気の沙汰では考えられない妄想で、これでは赤十字を通じての要望など満足に出来るはずが無い。従って拉致された者への通報や事情の釈明、また激励、慰謝などのメッセージは全抑留中を通じて一度も聞いたことは無く、調査団も来ず、医師、僧侶の派遣もなく即ち国は何もしていないのである。    (甲第22号証)

  五、ある裁判に出てきた日本国の訟務官が臆面もなく「法的には国が捕虜の補償をし
たり、帰還させねばならぬ義務はない」と述べて恥じることがなかったという。これが国の本音であろう。戦前から捕虜は勇者であり愛国者だというのが世界の常識であり、独り我国の「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪科の汚名を残すなかれ」に象徴された捕虜蔑視観と国際法の無視がどれだけ忠勇なる将兵を殺したか。また、おびただしいBC級戦犯を死なせたか。これらは戦争に負けて初めて知ったことであった。それでは国際人道法にもとるこれら野蛮な考え方を心から悔い改めたのかというと決してそうではなく、被告国は今に至るも一向に反省の色を示さないのである。ドイツのワイゼッカーに名言がある。 “過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる。”  

 いかに戦争中のことであっても人の道だけはお互いに守りましょう。捕虜の身分と人権は保証しましょう。というのが国際的な良識で、世界の文明国では自国捕虜の労苦に酬いそれぞれの方法によって応分の補償と救済を行っている。この精神は誰の心へも素直に入って誰でも合点ゆくことであり、人間共通の道理である。被告国が多少とも国際人道法の精神を遵守する気があったのなら、敗戦後54年の間未処理の「シベリア抑留」問題などとうの昔に解決していたことである。何もしなかった、またしないのはしたくないからで、無能でも怠慢でもなく、相変わらずの捕虜蔑視によるもの、これでは戦前の戦陣訓時代と少しも変わらないではないか。   (甲第23号証) (甲第23号証)

  第3、      告らをソ連に引き渡した責

 「シベリア抑留」をひき起こした張本人はスターリンであり、国際法やポツダム宣言第9項に示された“日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後、各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的生業ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ” を無視して強引に拉致したものであるが、反面唯々諾々と原告らを労役に提供したのは我国である。

 一、戦争の末期に一日も早い和平を願った我国が、その仲介をあろうことか、ソ連に頼もうとしたのが世に言う近衛特使問題で、その時に準備した「和平交渉の要綱」の条件第1は“国体の護持は絶対にして、一歩も譲らざること” であり、第3のロに “海外にある軍隊は現地に於いて復員し、内地に帰還せしむることに努めるも止むを得ざれば当分その若干を現地に残留せしむることに同意す。” またその解釈として “若干を現地に残留とは、老年次兵は帰国せしめ若年次兵は一時労務に服せしむること、等を含むものとす。”そして第4の賠償及びその他のイに “賠償として、一部の労力を提供することには同意す。”としている。国体護持のためには同胞を賠償労役に差し出すことも止むを得ないと、この時この考え方が政府中枢の頭の中にあったことは明白である。

 この事実を否定するのは難しいが、或いは言う、“当時のソ連は中立国であり、賠償労務提供の対象国ではない・・・・”と。また “特使派遣は実現せず、従って提示もされていないのだから実害はない。” これらの言い訳は実相を前にあまりにも姑息であり、著しく国の品格を貶めるものである。ソ連は当時ヤルタ会談において対日参戦を宣言した歴然たる敵性の国であり、莫大な特別勘定(賠償)を取り立てようとする最も危険な存在であった。貧すれば鈍す。そのソ連がタダで仲裁の労を買って出るなどの考えは冗談でなければ余程おめでたい話である。当然「和平交渉の要綱」はソ連の取り分も含むものであったが、彼は仲裁人の名誉よりも参戦の道を選び勝利者としての更にトクな方向を目指したことは万人が知るところである。なおソ連側に条件の内容が漏れていないという保証は何ひとつない。    (甲第24号証)

 二、兵士たちを賠償労役に使う計画は和平交渉のはじめから国家首脳が一貫して考えた基本方針である。これが未遂に終わったからといって「和平交渉の要綱」そのものが消滅し、一切は白紙に戻ったのであろうか、否である。天皇の勅裁を得たこの案は国の最も高い所で温存され、旬日を経ずして到来したソ連への降伏に際し遺憾なく利用されたのである。以下その事実を申し述べる。

 1993年7月、ソ連国防省公文書館より公開された「関東軍文書」その他によれば、国は60万将兵を賠償労役のためソ連にお使い願いたいと差し出していた事が判明した。1945年8月26日、大本営朝枝参謀名の「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」に “武装解除後ノ軍人ハソ連ノ庇護下ニ満鮮ニ土着セシメテ生活ヲ営ム如クソ連側ニ依頼スルヲ可。満鮮ニ土着スル者ハ日本国籍ヲ離ルルモ支障ナキモノトス”とある。朝枝繁春中佐は当時大本営参謀部第5課の対ソ作戦主任参謀であり、日本首脳の対ソ降伏方針を関東軍に伝達するため8月19日新京に飛来した。21日にはザバイカル軍管区カワーレフ大将と政治部フェデンコ中将に会見し、東京よりの方針を伝えている。その一部が前掲の文書であるが、まさに棄兵棄民そのものである。 (甲第25号証)

 三、朝枝の提案はソ連への絶好のプレゼントとなり、申し出の2日後の8月23日、スターリンは極東シベリアでの労働に肉体的に耐えられる日本人(日本軍軍事捕虜)を約50万人選別し、ソ連への移送を全軍に命令している。    (甲第26号証)

 四、朝枝が携えた方針に対し関東軍司令官以下参謀部も、“全面的ニ同意ナリ” とし「ワシレフスキー元帥に対する報告」なる文書を纏めて8月29日ソ連側に提出している。そのなかで “次は軍人の処置であります。これにつきましても当然、貴軍においてご計画あることと存じまするが、元々満州に生業を有し、家族を有するもの並に希望者は満州に留まって貴軍の経営に協力せしめ、その他は逐次内地に帰還せしめられたいと存じます。右帰還までの間におきましては、極力貴軍の経営に協力する如くお使い願いたいと思います。・・・・” と申し出ている。文書作成の責任者は、関東軍作戦班長陸軍大佐草地貞吾、文書筆跡は関東軍参謀陸軍中佐瀬島龍三であり、まさに近衛提案の具体化に外ならない。    (甲第25号証)

 五、関東軍参謀らは昭和20年8月19日ソ連領ジャリコーヴォにおいて赤軍総司令官ワシレフスキー元帥外と会談を持ったが、その内容は勝者の一方的な通告で、武装解除後の関東軍60万の兵力を捕虜として抑留する旨を命令され、出席した秦 彦三郎中将、瀬島龍三中佐は一言も拒否せず、ソ連の日ソ中立条約やポツダム宣言への重大な違反行為に対しても抗議一つもせず、また連行される兵士の運命についても口を閉ざしたまま、唯々諾々とソ連の命令を拝受するのみであった。

 六、8月25日新京に入ったソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥は関東軍司令官山田乙三大将と会談している。通訳をつとめたコワレンコによると、“わがソ連は独ソ戦で働 き盛りのロシア人男女2000万人を失った。捕虜になった関東軍はソ連領内へ移動し、日ソ両国政府間の取り決めを待つことになるでしょう。” といったに対し関東軍総司令官山田大将は “もし私どもがソ連領内へ移動するような場合には、私が預かっていた将兵が衣食住に不自由しないようにして頂きたい” と要望したという。しかし我が司令官は日ソ中立条約やポツダム宣言9項違反の抗議も国際法にもとる非難も、また将兵の早期帰還その時期、待遇について一言も述べた形跡はない。  (甲第27号証)

 七、1945年2月、終戦体制などを定めた「ヤルタ協定」第5条対独賠償二―Cでドイツ の労働力の使用を取り決め、約270万の将兵がソ連に抑留されて既に賠償労役に賦している。敗者となれば我国も同じ運命をたどるであろうことは当時要職に在る者ならば知らない方が不思議な事で、これらを百も承知の上で原告らをソ連に引き渡したのである。   (甲第28号証)

  八、当時の戦争指導は六人会議(首相、外相、陸相、海相、総参謀長、軍令部長)の牛耳るところであったが、いよいよ降伏と腹を決めても和平の条件等はソ連用に準備していた「和平交渉の要綱」のほかになく、これを取り出して利用したのは当然の成り行きである。役務賠償の抑留はやむを得ずとの方針は、大本営総参謀長(六人会議の一人)梅津美治郎より朝枝繁春参謀を経て昭和20年8月19日関東軍首脳に伝達されている。これら「関東軍文書」を敵将に差し出し、膝を屈して憐憫を乞うさまはわれら一兵士にとっても断腸の思いがする。鬼のような敵に対し兵士を存分にお使いくだされたくとの卑屈な追従は武人たるもの例え口が裂けても言えないことだ。

 暗雲のもと見よ遥か / 起伏はてしなき幾山河 /

我が精鋭がその威武に / 盟邦の民いま安し / 栄光に満つ関東軍

 兵営で朝な夕べに口にしたこの軍歌を思えば情けなくて涙が出る。我々はこのようにして売り渡された。軍律厳しい軍隊にあって国を裏切ったり背いたりすればどうなるか、売国奴と罵られて忽ち銃殺に処せられた。それなら国が兵士を売った場合は誰がどのような罰を受けるのであろうか、

 九、国体護持の要旨を承詔必謹して原告らをソ連に引き渡しながら、これらに被告が触れたがらなかったのは何故か、いまいげんじ氏の著書を引用する。“ところが、この不法行為に対して、日本政府が抗議を申し入れた形跡がないのだ。留守家族たちの悲痛な思いも知らぬげに、政府も天皇も、シベリア問題に触れたがらなかったのはなぜか?それは恐らく、ソ連の恥部を衝いて、スターリンを激怒させることを恐れたからだ。極東裁判でソ連が先頭に立って、強硬に「天皇ヒロヒトを最大の戦犯として裁け」と主張するかもしれない。「スターリンを刺激してはならない。シベリア抑留のことはそっとしておけ」それが日本政府の本音だったのだ。「バビロンの虜囚にも比すべきこの大掛かりな民族の流離」と、かって虜囚の一人であった高杉一郎氏が評する歴史的大事実。雪と氷のシベリアで幾歳月を呻吟し、或いは力尽きて凍土に眠るシベリア抑留者は、スターリンの報復主義と、天皇制国体護持のためのいけにえであったのである。そしてこの重大な日本史上空前の大事実が、戦後50年の現在に至るまで、高等教科書から省かれ、教えられては居ないのだ。(検定外ニホン史181ページ)

 大の虫を助けるために小の虫を殺すとは世間によくある事で切羽つまって万策尽きれば誰かが貧乏くじを引くことになる。織田信長が越前攻めで総崩れになった時果敢にも殿軍を引き受けて敵の追撃を阻止し御大将を無事退却させたのは羽柴秀吉であった。死と引き換えの壮絶な死闘を大の虫はどのように処理したであろうか、問題はそこである。“その節はご苦労であった。お陰で助かった。”とまず礼を言い、厚く労をねぎらい“これは当座の恩賞なり” と褒美を与えて賞賛する。秀吉とその部隊がこの待遇を受けたことは言うまでもない事で、これが世間の道理というものではあるまいか。  

 十、以上被告国が国民を売った事実を認めればよし、もしそうではないと言うなら当時の 関係者を証人として呼び出し、事の真相を聞こうではないか。下記の方々は高齢だが幸 い息災であられると聞く。裁判はいたずらに机上の空論を応酬するより事実の検証が一 番だと聞いているので、当法廷で真相を究明したく、申請の準備中である。

 元関東軍参謀 陸軍大佐 草地貞吾

 元関東軍参謀 陸軍中佐 瀬島龍三

 元大本営参謀 陸軍中佐 朝枝繁春

第4、      被告国は抑留中の衣食住に係わる給養費さえ払おうとしないのはなぜか。これこそ棄兵棄民の何よりの証拠であるので、その理由を明らかにされたい。

 前項において国がわれわれを売り渡した実際について証拠を添えて明らかにしたのであるが、更に国は捕虜が自前で食い凌いだ食費すらも払おうとしないのである。三度のめし代も知らぬ顔で済まそうとするこの一事を見ても苦難の底に呻吟する同胞を思いやる一片の愛情もなく、我々は非情にも切って捨てられたのである。
 
一、凡そ軍隊とは国民を随時招集し、妻子家族と生別させて容赦なく死地に投入する権利を持つものだが、その反面兵士の戦死、病没、傷痍軍人、捕虜に対しては責任を持つ、即ち使用者責任を有することは万国共通の定めである。

二、「シベリア抑留」は天皇の命令に基づき降伏後に日本軍として拉致されたもので、個人の資格でアムールを越えたものではない。自ら希望して旅をしたものでもなく、またシベリアは観光地でも保養地でもなかった。従って帰還するまでは公務であり我々はずっと日本軍人であった。

三、大東亜戦争陸軍給与令(昭和18年7月28日)第45条によれば、“戦地ニ在ル軍人軍属及諸生徒ノ糧食ハ総テ官給トシ現品ヲ以テ之ヲ給ス但シ便宜ニ依リ代金ヲ以テ之ヲ給スルコトヲ得。” とあり、戦後陸軍消滅により廃止となったときの政令第52号(昭和22年5月17日)第7条においても“この政令施行の際現に陸海軍に属し復員していない者は、その者の復員するまで従前の業務に相当する未復員者としてその業務に秩序を保って従事するものとし、給与についての取り扱いに関しては従前の例による。”とあり、国際法で定められた強制労働による賃金の支払いはともかくとして、全期間中の給養費を国は実定法に従って支払うのは当然のことである。

四、同じ捕虜でも船待ちの短期南方組は労働賃金に加え給養費をも受け取っている。天皇の命令で捕虜になりながら、この不公平極まる措置はいったいどう言うわけか、汝らは朕の赤子なるぞといわれたが、一方の赤子に饅頭を与え、片一方にやらないではどんな騒動がおこるか、人の親なら自ずと判るが道理である。

五、抑留中はソ連が喰わせてくれたのではない。彼たちがそんなお人好しではない事はご存知であろう。われわれは日々の苦しい労役の稼ぎの中から牛馬の餌か飼葉のようなものの代金を水増しされて差し引かれ、辛うじて生き延びた。即ち自分のカネで食いつないできたのである。我が軍は国際法の無理解から極端に捕虜を嫌い、軍律上も残酷峻厳に対処してきたが、捕虜となった者の糧道を発つがごとき非道はさすがにしていない。その唯一の例外が「シベリア抑留である。

第6、      被告の責任

 以上被告は「シベリア抑留」に対して何ら有効な措置を講ずることなく、唯々諾々として傍観していたのみならず、われわれ将兵をソ連に引き渡した不法はどのような罪状に当たるのであろうか、憲法や六法全書のどこを探せば書かれてあるのか、われわれ原告は国民に真実の情報を与えて世論に問うべきであるとして今検討中である。国と国民の信頼は国家形成の根幹だが、これが侵された由々しき事件が、法律がないからといって不問に付されてよいものだろうか。“・・・・それらは憲法の予測せざる処であり・・・・” とは被告がときに多用する常套語であるが、問題の解決にはなっていない。まさか国から売られようとは神ならぬ身の知る由もない前代未聞の椿事であり、まして無知な原告では相当する法的根拠を示すことが出来ない。しかし日本国憲法の精神及び道義の上から請求の趣旨にかかげる謝罪文程度は最小限認めて然るべきである.

 “一人を殺せば殺人犯だが、百万人を殺せば英雄か” はチャーリィ、チャップリンの発した警句だが、そのひそみに倣えば、 “一人でも奴隷に売り渡せば犯罪だが、60万をまとめて売れば法も及ばない” のであるのか。神聖なる当法廷の裁判官に申し上げる、以上申し立ての事実検証と道義と人道精神に立脚した慎重な証拠調べの機会を与えられるよう要請する。

  第5回公判ご案内               2000.1.10.




第5回公判の日、1009法廷前(2000.1.21)

 年頭早々多くの方から賀状をいただき、有難うございました。裁判もいよいよ本番で、次回は次の通りご案内申し上げます。

  日時・・・・平成12年1月21日午前11時30分   場所・・・・1009法廷

 被告の返事が遅れに遅れていましたが、漸く答弁書と準備書面1が送られてきました。概ね予想の範囲で当方は早速証拠を付けて反論し、法のあるなしに関わらず事実の審議を急ぐよう要求いたしました。

 1月11日提出の原告準備書面は同封の通りで、bSは松本 宏が、bT.bUは池田幸一が執筆いたしましたが、これらは次のbVと合わせ序盤戦の争点となりましょう。

 老カマキリ五人は元気で越年いたしました。国を相手に一歩も引かない裁判をしたい、これが一同の年頭所感です。

   枯れ蟷螂/ぎりりと顎を/回しけり   (朝日俳壇)

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