第1章

  1、  提訴まで


  <その2> それまでの出来事                  

T君への書簡  1 T君への書簡  2
原告加藤木敏雄への書簡  1 原告木谷丈老への書簡  1

T君への書簡  1                   1998.11.29.

 東京では青山の定宿に泊めて頂いたり、随分とお世話になりました。滅多なことには行かなくなった東京で旧交を温められたのも、死んだSの引き合わせだと思います。

 それにしても貴兄の全身にみなぎる精気と、包み込むような友情は昔のままで、仕事を離れた私にはこれらがとてもまぶしくて、やはり男たるものは終身現役が理想です。死んだSにしてもあの難しい業界で数々の仕事を残し、三回忌の偲ぶ会でもあれだけの人々に惜しまれ続けていますが、これは彼の人柄もさることながら終身現役での死という壮烈な印象がまだ鮮やかに残っているからでしょう。劇団や映画人らの華やかな集まりの中で変り種は貴兄と私の二人ぐらいのもので、その貴方が「新京満映」時代にチェーホフさんと呼ばれたSの面影を語り、引き続いて私が抑留中での劇団「東方座」の彼の思い出を・・・・ Sの知られざる前世のような思い出話は満座の人々に喜ばれ、大いに面目をほどこした次第でした。

 Sは「H映画放送」社長、また「日本プロデュサー協会」会長などをながく務め、各方面に良い仕事を残しました。これらの作品は今後も多くの人の心に生き続けることでしょう、Sは死してなを名作を残した幸せな男でした。

 青山の一夜で貴兄に語り忘れたことが一つあります。日の目を見なかった「映画シベリア抑留」のことです。

 私は原爆をあつかった映画「黒い雨」を見て、しばらくは席を立てないほどに心を打たれことがあります。広島と長崎は気の毒にも戦争のツケをまとめて払わされたようなことになりましたが、その悲惨な傷口は多くの優れた作品に残され、「ノーモア、ヒロシマ」は世界の隅々に発信され続けています。「シベリア抑留」もこれに劣らぬ悲劇で、人間にとって自由と人権をかくも長い間しばられることがどれほど辛いものであるか、またその後始末もそのままという理不尽さ、それを世に訴える映画一つありません。60万兵士の怨念を次代にぶっつける作品を一本だけでも作れないものだろうか。“映画を一本作ってくれ” 私はSに幼児がおもちゃをねだるように駄々をこねたものです。たしかに難しいことには違いない、莫大な費用と調達、、それになによりテーマが暗すぎる。つらく、ひもじく、ラーゲリ と雪、それに女ッ気ひとつない映画を誰が見に来るか。私たち自身でさえ思い出したくも語りたくもない嫌悪と自虐にだれが金を払うのか?

 しかしもう長くは生きられない。抑留がなぜ起こり、あの労役がいったい何の役に立ち、それが戦後日本にどう作用し、その実相は正しく国民に理解されているでしょうか。この思いはダモイの後も気がかりなことでしたが、食うに追われ子育てに必死のうちに時は移り、そのうち老いて事件ともども埋没されようとしています。寡黙な私たちは次代に何を残しえるのか、出来る男が、出来る方法で、次代に残しておくのはSたち才能のある男の義務であります。そんな思いのある日、突然速達便が届いたのです。受け取る手に残った分厚い手応えを今も忘れることができません。私の期待の通り中身は「遥かなるシベリア」のシナリオで、添書によれば難航していたスポンサーもようやく現れ、提携のモスフイルム社との間にロケ地も決まり、近く下見に出かける予定とか・・・・トントン拍子の進行です。Sは忘れてなどしていなかった、私はもう舞い上がってしまいました。三人の兵士の数奇な運命を軸にしたストーリーにやや不満は残るものの、辛口に仕上げてくれれば結構よい作品になる骨格を持っています。

ふくらんだ私の期待はその後間もなくの電話で粉々にされてしまいました。“ だめだ、映画にならないのだ。” と彼はいいます。“今どきの若者は栄養が良すぎてシベリアの顔ではない、香月泰男が描く幽鬼になってくれないのだ。この兵隊では別の映画になってしまう。” というのです。結局映画化は中止、話はそのままになってしまいました。

 寸毫もおろそかに出来ない彼の潔癖のためか、あるいは他の何ものか、今は知る由もないことですが私はもう諦めています。せっかくの作品が「異国の丘」や「岸壁の母」調のエレジーになってしまうのなら、無いほうがましだと思うからです。

 私が裁判などと大それたことを思いついたのも、あながちこの話と無縁ではありません。映画がだめでもこれなら残せると考えたのです。訴状などの資料は公文書として永遠に残される、後世に伝えるのにこれほど確かな手段が他にあるでしょうか。

 私は昨春76歳、ようやく小さな家督を息子に譲り小暇を得ましたが、それを待っていたかのように全抑協の「シベリア裁判」が敗訴し、16年を費やした補償運動は崩壊の危機に見舞われました。この訴訟は最高裁まで争われて不運にも敗れは致しましたが、渋る政府に予算を割かせてわずかにせよ慰藉の措置をさせたことは事実上の勝利であり、そのうえ審理の過程において多くの新事実を発掘して真相に迫った功績は高く評価されましょう。この継続なら私にでも出来る範囲であり、自分の責任で自分の余命あるうちにやれそうだ、これらの構想に基づいて自分なりに主張したい、幸い5人の同志で準備を進めているところです。

 貴兄の健康とお仕事の繁栄を祈りつつ・・・・

  

   T君への書簡  2                  1999.1.25.

 “ お前が突撃するのに戦友のおれが指をくわえて見ておれるか、ぜひ原告の中に入れてくれ” と、貴兄ならではの気持ちをかたじけなく拝読しました。黒パンを分け合った仲間ほど有難いものはありません。ただただ嬉しく心のなかで手を合わせています。しかしその返事の前にことの経緯について知っていただく必要があります。

一昨年春に仕事を離れた隠居の私が、ヘールホップとかの彗星で孫の相手をしているときでしたか、突然全抑協裁判敗訴のニュースが流れました。私には彗星どころか これこそ晴天の霹靂で、悔しい悲しいよりも熱い棒のようなものがとつぜん全身を走り抜けました。こんなバカなことがあってたまるか、勝つに決まっている裁判がどのようなわけでこうなるのか、舐めるな このヤロウ。 憤懣やる方ない日々が続くうちに横浜在の松本 宏という未知の人物から “提訴のすすめ” という文書が送られてきました。世の中広いもので私と同じように腹を立てたご仁もあるようだと、その硬質な趣意書に引かれて返事を書いたのが事のはじまりです。

 文通を重ねるうちに京都での集会に顔を出さないか ということになりましたが、この人は巳年生まれの私より四歳上で、偶然に拙著を読んで共感され 呼びかけたとのことでした。会場は二条城に近い京染会館、ここでの出会いが私の余生を狂わせてしまうことになり、おかげで悠々自適どころではなくなりました。集まりは主に京都府全抑協の人々で、それに他県の論客が加って30人ほど、中心は松本 宏、弁護士のO、世話役の森本繁造の諸氏で、議題はもっぱら提訴へ向けての一筋道と もうあらましの構想はまとまっている様子でしたが、だれ一人顔見知りのない私は面通しもそこそこに、ただ森本世話人の“目の色の黒いうちに一矢だけでも酬いたい” のひと言があとあとまで頭の底に残りました。さして盛り上りもないままにお開きとなり、主な方々は懇談という名の二次会へ、雑兵には声も掛からず木枯らしに吹かれながら別れたことでした。

 これが11月、年が明けて2月にはようやく懇談とやらにもお誘いが掛かるようになり、その会場は青蓮院門跡まえの楠荘、ここが森本氏ごひいきの宿でしたが、時流に乗れない斜陽の館でその分おっとりと、われわれには格好のアジトとして以後気ままに使わせてもらいました。

 松本老人は実に強引で自分の思った通りをどんどん進め、提訴は東京を避け、革新性がまだしも期待できそうだという大阪地裁で、そのためには抑留経験のある大阪のO弁護士を、従って事務局は地元の池田の役目、原告は全抑協京都府連会長の森本繁造、奈良県連会長の木谷丈老、それに茨城県連会長の加藤木敏雄を加えて5名、もうこの頃にはこれらの骨格がまとまり、後は弁護団の編成と訴点の統一、そして提訴の日程ぐらいのものにまで話は進んでおりました。

 4月の楠荘会議を経て5月27日には松本、池田で徹宵の打ち合わせを・・・・、訴状起草の分担と以後の大綱を打ち出す相談で、三河湾に面した国民宿舎の桑谷山荘がその会場に決められました。 蒲郡を見下ろす部屋での打ち合わせは悲壮感がいっぱいで生涯忘れられない一夜となりましたが、そのわけは弁護士なしの素人裁判強行を決意した運命の日となったからでした。

 黒パンの味を知った「シベリア抑留者」であることが条件で松本老人が探し出したO弁護士は、主にカネにならない事件を引き受ける人権派のベテランで、人柄の優れたわれわれには打ってつけの人物でしたが、残念なことに弁護の依頼を固辞されたのです。陰ながらの助力、助言は惜しまないが現状は手一杯で体力と時間の余裕が全くない、と言われれば、 いくら豪腕の松本流も歯が立たず諦めるよりほかありません。

よくよく考えてみれば「シベリア抑留」は実に不利に出来ていて、まずは最高裁で負けたばかりであること、次に問題の門口が広くて深く、弁護陣は最低7〜8人を要するという、つまりカネが大変。それに調査、研究には相当長い時間が必要とか、それではとてもこちらの寿命が持たない。つまり弁護費用はともかくよほどの侠気と自信がないかぎり引き受け手はないらしい。カネなし知恵なし力なし、そのうえ時間も乏しい老人の味方は一両で恨みを晴らしてくれる必殺仕掛人の外にはないようで、これが世間というものか。老いたるドン、キホーテとその従者はここに来て立ち往生となったのです。

松本という老人の真骨頂はこのような窮地に立たされたときで、無学揃いを前にして京大法科出はこともなげに “弁護士がおらんなら無しでやればよい、訴状ぐらいは俺が書くさ” というのです。目からうろことはこのことでしょう、なるほど抑留地獄を訴えるには当の本人が最適のはず、法律音痴のわれわれが人さま以上に知っている事といえばシベリアでのナマの経験だけ、そうだ、これこそ一番強い武器ではないか、事実をそのまま綴ればどこの誰が書くより裁判官の心に届くはず と一気呵成に代理人抜きの当事者直接裁判となった次第です.

 その結果訴状の前半は松本が、後半を池田が書き、明春には大阪地裁へ提訴、初年度予算は100万、原告5名の均等負担が原則で不足は広くカンパに訴える・・・・

 この日の宿は海軍記念日で、客にはその関係者もあり、何でも近くのA級戦犯顕彰碑に参拝するとか、私らも薦められましたが彼ら戦犯の被害者である「シベリア抑留」はとてもその気にはなれませんので、お断りをいたしました。

 以上のようにお上に逆らう不逞の裁判は勝算に乏しく、実りのない訴えになりましょうが、誰かがやらねばならない男のけじめで、これを最小の規模ながら国を相手に異を立てることに意義があり、それ以上は溢れて無駄になりましょう。幸い5名は隠居の身で失うものが何一つないのが取りえ、貴兄のような現役では必ず仕事に支障を生じます。人それぞれ持分があり時間ある者は時間を、知恵ある者は知恵を、カネある者はカネを応分に分担して力を一点に集める、一人一役みんなが主役、そこではじめて弱者の活路が開けるのではないでしょうか。前線は5名に任して後衛からの応援と兵站援助をお願いできないものか 友情に甘えてご了承を乞う次第です。

  

  原告加藤木敏雄への書簡 1             1999.3.6.

 懇切なお手紙拝読。

 「カマキリ」は「蟷螂」ではどうか との御意見はごもっとも、私もそのほうが好きで迷いましたが当用漢字にないことから平凡ではあれ片仮名に決めた次第、どうかご勘弁ください。戦友たちを中心に広くカンパの呼びかけを・・・・との取り決めにしたがい、奉加帳を作って何はともあれ振替口座をと郵便局へ出かけたのですが、窓口でハタと当惑、そうだ、われわれはまだ会の名前もないグループなのでした。裁判は大阪だからと無理矢理押し付けられた新米事務局が泡を食ったのも当たり前で、とっさの思案が「蟷螂の斧」でした。身の程知らずではあれ高々と斧を構えて戦うカマキリの気高さも、竜車に刃向う五分の魂もカタカナではいかにも軽いのですが、名前は以後の働きひとつでどのようにでも貫禄が付くとか申します。事後承認の形で済みませんがどうかご了承いただきたく。松本さん、木谷さんは事務局一任と、森本さんからはアジトの名前から「楠会」ではどうか のご意見もありました。

 それから「五匹のカマキリ」より「七人の侍」をご希望ですが、そうあればなお結構なのですがその見込みはありません。滋賀のSさんはあれだけ熱心な、また勉強家であり当然ご一緒かと思いましたが “俺は部外から協力する、応援団も必要だろうから・・・・” とかで抜けられました。相沢派との繋がりが邪魔をしたのではないでしょうか。この人は軍人恩給の加算運動にも色気があり、補償要求の「カマキリ」と二頭の馬に賭けておられるようです。賢明な産婦人科の先生は双子がお望みなのでしょう。

 和歌山のMさんは松本さんの戦友で、顔は出さないが一心同体だ、すべては任せるからと固いお話であったのを直前に辞退されたのは私の責任です。訴状に添付の陳述書をそれぞれに書いてもらいましたが、Mさんの文中にやや事実に違いの箇所があり、訂正方をお願いしたのがご機嫌を損ねました。 “言いたいことが言えないのでは先々自信が持てないから・・・・ただしあとあとの費用分担は負担する。” とのことでした。事務局早々の失態で深く反省しております。

 剛球投手をリードするのが捕手たる事務局の役目とのお励ましは重圧で、私に自信はまったくありません。ともかくここまでこられたのは松本さんの力ですし、またあの人でなければ一歩も前へ進めない。訴状一つにしてもあの人の持論である「閣議決定」が急所の一つであることはよく判りますが,しかしこれ一本で勝てるほど相手は甘くないと思います。二の矢、三の矢が続くのかどうか、私はO先生が頼りですが紳士であられるこの人は滅多に踏み込んでは下さらないのです。われわれの発想を法的に直し、ひどい文言に手を入れて下さるもののそれ以上ではない、実に親切な指導ですが決して一線は越えてくださらない。依頼の承諾も報酬もなしでは、また職業上のけじめからも当然のことなのでしょうが・・・・

 しかし裁判所まえのO法律事務所は格好の砦となり、煩雑な訴訟手続きやその事務一切を手に手を取って教えて頂き、感謝の言葉もありません。まさに天の助けで、これなくして素人に出来る仕事ではありませんでしたよ。

 先生のお勧めもあり、松本さんの訴状に加えて私も「役務賠償による補償要求」を主張することにいたしました。従って前半を松本さん、後半(第3の三以下)を池田が書き、合わせて一本の形になります。O先生は以後皆さん原告の意見をまとめ、逐次「準備書面」で追訴するように・・・・との助言がありました。

 提訴は4月1日を検討中です。エプリルフールではなく真面目な案で、この日は松本さんの82回目の誕生日、出陣には打ってつけの吉日ではないでしょうか。

 追伸

 戦場が大阪では遠い日立からの行き来が大変です。どうかお泊りは拙宅をお使いください。狭い家ですが子供たちはそれぞれ出て行き、家内と二人の年金暮らし、一向にお構いは出来ませんが気楽なだけが取り柄です。

 

  
  原告木谷丈老への書簡 1
               1999.3.25.

 たくさんの資料を有難うございました。

 中でも斉藤六郎氏のものはとても参考になります。これらを読み進むうち、よくも私は裁判などという大それたことをやる気になったものだと冷汗三斗の思いですが、逆に知っておればとてもやれなかった、めくら蛇に怖じずとはこのことでしょう。しかしいまさら泣き言を言ってもはじまらず、走りだしてから握り飯を頬張るマラソンランナーのように、早く消化して戦力にと 勉強々々の毎日です。

まるで不勉強の私と違い貴方は奈良の、森本さんは京都の、加藤木さんは茨城とそれぞれ全抑協の会長として長年ご苦労され、これらベテランの貴重な経験は必ずや今後の訴訟に生かされるはず、また充分に生かせて頂きたい。資料提供とともにぜひ争点のヒントを、どしどしお寄せ下さるようお待ち申しております。

 森本さんの健康不安のこと、私も気がかりです。この会の発起人としてはじめから骨折られた功労者ですし、原告の一人として欠かせないこの同志の容態は心配です。

 昨年の夏ごろからでしょうか、新しい主張とあの勢いのある発言が影をひそめ “近頃は物忘れが酷うなって家内に叱られてばかり、自分で自分がなさけないわ。俺はもうあかんのやろか、なぁ“ は普通のときで、的外れの返事に混じって同じことの繰り返しが多くなり、そのため議論が中断して思わず顔を見回すことが続きました。

秋の楠荘の帰路のことですが、私が同乗させてもらったタクシーの料金を払ってくださる時トラブルがありました。運転手は670円ですよ と言うのにこの人は6700円を無理やり渡そうとしているのです。慌てて私が払って別れましたが あぁこれは相当進んでいるな と暗い気持ちになったものでした。アルツハイマーの初期ではないでしょうか。

この人は立志伝中の人で、ダモイのあと苦労して京染の染料を商って産を成し、自社ビルやアパートを持つ名望家で運動にもずいぶん尽くした人と聞いています。仕事はご子息に譲っても身体は元気で毎日会社に顔を出しておられ、医者にはまだの様子です。カマキリの用件は今のところ奥さんの中継で万事支障なく、せめて病状の安定を願うばかりです。

 昨日はOさんの案内で裁判所の要所を見学いたしました。戦場はこの辺りという本館10階の小法廷も下見をいたしましたが、テレビで見るのとはまた違った趣で、近くはじまる光景を思いやり少しは腹も据わったような気になりました。考えてみればこの立派なお白洲を借り切りで、神官のような裁判官を三人も立ち会わせ、高い税金の訟務官とやらを被告席に引き出して詰問できるのは贅沢なことで、この諸費用が10万弱とは。不謹慎な言い方ですがこれが余生を費やす道楽なら安いもの、ぼけ封じのゲームだと思えば最高の健康法だと納得いたしました。

 いよいよ提訴まで40日、毎日訴状の仕上げを急いでいますが、前回の斉藤六郎氏の大裁判に比べカマキリの訴えは余りにも淡白です。訴えは数撃ちゃ当たるというものでもないでしょうが、争点が三つだけとはいかにも貧弱で、これでは年内にでもやられてしまいそうな感じがいたします。松本さんは急所の一突きだからこれで充分と「閣議決定」と「天皇の命令」に賭けておられ、私は二の矢の用意がないことが心配の種です。

頼みのO先生は“原告からもっともっと問題点が出てきそうなもの、それを逐次まとめ上げて準備書面の形で打ち込むべき” との助言以上の指導は頂けません。私はやはり焦点は国際法であろう、ソ連に労働証明書の発行を要求し、それによる支払いを保障した「浅海文書」と、「日ソ共同宣言」で相互放棄された未払い賃金の補償を追訴したいと考えます。それには前の裁判に深くタッチされていた貴方の経験が有効です。その辺りのお知恵をぜひご教示下さるよう切にお願い申し上げます。

 


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